船橋市 <麻原彰晃の真実(1)>〈週刊朝日〉

船橋市

27歳ですでに詐欺師… 麻原彰晃はどうやって出来上がったのか?<麻原彰晃の真実(1)>〈週刊朝日〉

6日、法務省が発表した、オウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚ら7人の教団元幹部の死刑執行。多くの謎を残したままの死刑執行に、様々な声が挙がっている。麻原彰晃とはどんな人物だったのか? 6千人を超す死傷者を出した地下鉄サリン事件から17年となった2012年。最後の特別手配犯3人の逃亡生活にピリオドが打たれた年に発売された『週刊朝日 緊急臨時増刊「オウム全記録」』で徹底的に取材した麻原像を、特別に公開する。日本中を、いや世界を震撼させたオウム事件とは何だったのか。「尊師」と呼ばれた男の半生と、テロにつながった「狂気」の全貌を、全3回で明らかにする。

【麻原彰晃と教団「諜報省」トップの井上嘉浩】
*  *  *
「私の生い立ちは不幸だった。泣いてばかりいた」

「尊師」と呼ばれた男はかつて、オウム真理教幹部の一人にこう漏らした。地下鉄にサリンをまき、拉致や殺人を繰り返す「狂気の物語」は、そんな男の少年時代の苦悩から幕を開ける。

■狂気の芽

日本の三大急流のひとつ、球磨(くま)川が八代海に注ぐ熊本県八代市高植本町(たかうえほんまち)。オウム真理教の教祖、麻原彰晃(あさはらしょうこう)こと松本智津夫死刑囚(以下、麻原)の実家は、藺草(いぐさ)畑の緑が広がるこの町にあった。地下鉄サリン事件の翌年に母が76歳で亡くなり、97年にはここで鍼灸院を営んでいた長兄が53歳で死去。畳職人だった父は「もうここにはおられん」と、間もなく町を去った。その父も08年、92歳で逝った。長兄が建て直した実家は解体され、いまは更地になっている。

1955年3月2日、麻原は生まれた。一家は両親と男5人、女2人の7人きょうだい。下から2番目にあたる四男として育った。ほかに姉と弟が1人ずついたが、ともに1歳でこの世を去っている。

11歳年上の長兄は全盲で、熊本市内にある県立盲学校で寄宿舎生活をしていた。麻原も先天性緑内障で左目は見えなかったが、右目は弱視ながらも見えたため、自宅近くの小学校へ進んだ。

おとなしくて、女の子とままごとばかりしている子どもだった。どうしても目を細めがちだったので、女の子からもいじめられることもあったという。

小学校に入学した年の秋、麻原の人生に最初の転機が訪れた。家から40キロ離れた、長兄と同じ盲学校へ行くことになったのだ。

子だくさんで貧しい家庭の先行きを案じた両親が、就学奨励費の受給を目当てに、転校を決めた。それが、後に世界を震撼させる「狂気」の下地を作ることになると、誰が思っただろうか。

「親に捨てられた」との思いを強くした麻原は毎日泣き、転校を嫌がったが、

「傾きかかった小屋のような家で、土間にむしろを敷いて生活していた。長い教師生活の中でも、あれほど貧しい家は、見たことがなかった」(盲学校小学部時代の教諭)

という状況では、いたしかたなかった。

全盲の生徒も多いなか、右目が見えた麻原は、勉強でも運動でも目立った。体格もよかった。中学部から柔道を始め、高等部で二段を取得。校内でバンドを組み、ボーカルを担当した。西城秀樹の「情熱の嵐」が十八番(おはこ)だった。

こうして小、中、高、そして鍼灸師の資格を取った専攻科と、14年間の寄宿舎生活の間ずっと、麻原は同級生や下級生に君臨した。一方で、決して上級生には刃向かわなかった。

小学部の時は、人形劇をまねた「サンダーバードごっこ」に熱中し、自分が隊長になった。紙で作ったタスキと帽子を同級生につけさせ、「1号」「2号」……と呼んで従えた。気に入った「隊員」には、キャラメルのおまけを与えた。中身は自分で食べた。

中学部時代は寄宿舎の部屋で「プロレスごっこ」の毎日だった。同室の仲間同士を無理やり戦わせたが、麻原以外の5人は仲がいい。当然、遠慮し合う。すると麻原は「こうやれ」と言って、自分で仲間を殴った。殴っては笑っていた。

お気に入りの取り巻きには優しかった。いつも子分のように振る舞う全盲の生徒がいた。麻原はその生徒に読ませたい本を手に入れてきては、同室の目の見える生徒に命令した。

「徹夜してでも、朝までに点訳しろ」

翌朝、出来上がった点訳を、得意げに渡した。

カネへの執着もすでに見てとれる。小学部高学年のころ教諭に、

「先生、僕は大きくなったらカネもうけするから、億の単位で貸してあげる」

と言って驚かせた。

「金持ちにならなきゃ」

が口癖だった。

小学部5年のとき、麻原は児童会選挙で会長に立候補した。落選すると、職員室に行って親しい教諭を教室に呼び出し、その面前で声を上げて泣いた。

「先生が落としたんだ。みんなに『票を入れるな』って言ったんだろう」

驚いて、教諭は尋ねた。

「どうして、そんなごまかしをすると思うの? 智津夫君は、みんなに好かれていると思う?」
「うん」
「どうして?」
「僕は3カ月前も前から、『よろしく』って、みんなにお菓子を配ったから。寄宿舎で出るおやつをためて」

教諭は「この子はとんでもない勘違いをしている」と感じた。すると麻原は泣き腫らした真っ赤な目で、

「僕には人徳がなか」

と漏らした。

しばらくたってから、配ったお菓子は、ほかの児童から奪ったものだったことがわかった。

中学部、高等部でも生徒会長に立候補したが、落選。寮長の選挙にも落ちた。

将来の自活のため、地道な努力を重ねるしか無い全盲の仲間たちの中で、いくらかでも外の世界を見ることができて、力にモノをいわせられた少年は、「王様」であり続けた。ところが、選挙には落ち続け、自己顕示欲を満たしきれなかった。そうした複雑な欲求不満を抱えたまま、麻原は75年3月に盲学校を卒業した。

最初は眼科医を目指していたが、当時は視覚障害があると医師免許を取れなかったため、断念。卒業して半年ほどたつと、麻原は数人の教諭に電話をかけ、

「中国に行って鍼灸の勉強をしたい。漢方薬の勉強もして、中国に東洋医学の研究所をつくりたい。だから餞別をください」

と頼んだこともあった。

卒業の翌年に麻原が数カ月間働いた熊本市内のマッサージ店主は、こう話す。

「大学受験のために、よく勉強していた。熊本大に行くのかと思って聞いたら、『あんなところは、おかしくて行かれん。東大か早稲田に行く』と。自負心が強くて、うぬぼれているところがありました」

■宗教とカネ

予備校へ通うため、22歳で東京へ。このころ周囲には、「東大の法科へ行って政治家になる」と話していたという。

「代々木ゼミナール」に通い始めてまもなく、通学電車の中で同じ代ゼミに通う女性と知り合った。彼女との間に子どもができると、東大受験を諦めて、78年1月に結婚した。

新婚の二人は千葉県船橋市に「松本鍼灸院」を開いた。同年7月には長女が誕生。9月には鍼灸院を閉じ、市内の別の場所に診療室兼漢方薬局の「亜細亜堂」を開いた。

麻原の著書『超能力「秘密の開発法」』によると、麻原が宗教に目覚めたのは、このころだった。鍼灸治療で完治したはずの患者が、元の生活に戻ると、すぐに再発してしまう。その様子を見て、「自分は無駄なことをしているのではないか」という疑問がわいたのがきっかけだったという。

<そのとき初めてわたしは、立ち止まって考えてみたのである。自分は、何をするために行きているのだろうか、と、この”無常感”を乗り越えるためには、何が必要なのだろうか、と>

こうして麻原は運命学や漢方、仙道(仙人の術)に熱中するようになった。

亜細亜堂は繁盛したが、80年7月、健康保険薬剤不正請求で670万円を追徴され、閉店した。近所の医者から白紙の処方箋を入手し、適当な金額を記入しては、健康保険組合などに調剤報酬などを不正に請求していたのだ。

閉店の1カ月後、麻原は阿含宗に入信。さらにヨガや「肉体修行を通じて個人的な解脱を目指す」小乗仏教的世界にのめり込んだ。

81年2月には「BMA薬局」を開業したが、翌82年7月にニセ薬を売った薬事法違反容疑で逮捕された。煎じたミカンの皮などから取り出したエキスを「万能薬」と称し、「リューマチ、神経痛、腰痛が30分で消える」などという謳い文句で都内の高級ホテルの一室に人を集めて10万円近く販売。売上は1千万円以上に膨らんだ。麻原は略式起訴されて罰金20万円を支払い、再び店を閉じた。

この二つの事件を振り返ると、盲学校時代に垣間見えた麻原の危うさが肥大し、はっきりと形になってきているのがよく分かる。

麻原は、カネへの執着の強さから、27歳で詐欺師になり果てていた。(年齢肩書などは当時)

*選挙での惨敗が麻原彰晃を凶行へ… 背景に幼少時代のトラウマ <麻原彰晃の真実(2)>へつづく