船橋市 「アラブの春」
「狂犬」カダフィー政権の42年の内情は?
こうして独立したリビアでは3つの地方政府によって自治が行なわれ、トリポリとベンガジという2つの首都を有していました。1955年に東部で石油が発見され、イドリースはオイルマネーをよりどころに連邦制を改め、中央集権国家の建設を図りました。ところが、イドリース政権が欧米よりの政策を取ったために(隣国エジプトでは反英政策を打ち出したナセルの全盛期)、デモが頻発するようになっていきました。1969年トルコでイドリースが病気療養中であった間に、27歳という若さのカダフィー大佐(ムアンマル・カダフィー)と将校たちが、わずか2時間で無血クーデターを成功させたのでした。
カダフィーは2011年10月に死亡するまで、実に42年という長期にわたってリビアを統治していました。対外的には、彼はテロ事件の黒幕として多額の賠償を支払い、国際的にもたびたび経済制裁を受けていました。そのエキセントリックな行動によって、欧米諸国では彼のことを「狂犬」とまで呼んでいたほどです。ですが、彼の統治政策、つまり内政についてはほとんど知られていません。リビアに外国人の学者が入国できなかったという事情もあり、カダフィーが直接民主制を標榜していたこと以外の内情はほとんどわかっていないのです。
そもそも、リビアはアフリカの中でも貧しい国の一つでした。ところが、1955年に発見された石油はとても質が良く、埋蔵量も豊富だったために(世界第8位)、石油の富で潤うことになりました。結果にすぎませんが、わかっていることは、彼の死後、彼の一族による蓄財の額が(資産は凍結中)信じられないほど巨額であったことでしょう。判明しているだけで14兆円、日本国内にも3500億円あったといわれています。
ですが、同時に彼は石油の富の恩恵を、リビア国民にも分配していたようです。カダフィーは石油から得た巨万の富を利用して、比較的人口の少ない国民に対して(2011年の人口約600万、2016年 約640万人)、いわば「ばらまき型」の統治を行なっていたようです。彼の死の直前には、リビアは国連の人間開発指数では、アフリカ大陸の中で最も高い国の一つとなっていました。平均寿命も74歳と先進国並みになっており、就学率などもアフリカでトップクラスの優秀な成績を収めていました。税金もなければ、電気、学校、医療も無料で提供されていたそうです。
チュニジアでジャスミン革命が発生した際に、リビアでもデモが発生しました。2011年2月15日にベンガジで、拘留されていた人権派弁護士の釈放を要求するという形をとって反政府運動が始まりました。ベンガジに代表される東部の地域は、カダフィー出身地の中央部の都市シルトや首都トリポリに比べると、自治の気風が強く、カダフィーへの支持が弱かったといわれています。
これに対して、カダフィーは弁護士の釈放だけでなく、拘束されていた100名以上ものイスラム主義反体制派の解放に応じました。ところが、抗議デモはベンガジだけでなく全土に拡大したため、政権は治安部隊や傭兵を使って鎮圧に乗り出したのでした(リビアでは「2月17日革命」と呼ばれる)。カダフィーの実質的後継者といわれていた二男が、政治改革を約束する声明を発表してデモの鎮静化を図りましたが、デモは拡大の一途をたどっていきました。
政府は警察、治安部隊、空軍まで使って、デモ沈静化のために自国民を攻撃しました。2月22日には犠牲者が600名を超え、国連安保理事会の緊急会合で、自国民に対する武力行使を非難する声明が出されました。反政府軍が増していく中、カダフィーが徹底抗戦の声明を出します。反政府軍との戦闘は激しさを増し、事態は混迷していきます。
「独立した国家における内戦で国際社会がどちらか一方に肩入れすることは、国連憲章第2条7項の内政不干渉に抵触するのではないか」いう議論がありましたが、3月になるとフランスを中心に、NATO主導の軍事介入を模索する動きが活発化していきました。結局、17日には国連安保理事会で、空爆を承認する決議が採択されました(賛成10、棄権5:インド、中国、ロシア、ドイツ、ブラジル)。空爆は10月のカダフィー殺害まで7カ月間続きました。最終的にNATO軍は2万6000回以上も出撃し、9600回(単純計算で1日46回)を超える爆撃を行なったのでした。
カダフィー政権は空爆や反政府軍の侵攻によって、しだいに弱体化していきました。8月末には首都トリポリが反政府勢力に占領され、カダフィー派が残っているのは彼の出身地であるシルトのみになっていました。10月にはシルトが陥落し、カダフィー自身も殺害されました。こうして、42年にわたる長期政権が崩壊したのでした。
つづく