日本震撼、オウム事件全史

日本震撼、オウム事件全史

信者と共に修行するオウム真理教の麻原彰晃(あさはら・しょうこう)こと松本智津夫(まつもと・ちづお)元代表。2006年に死刑確定=オウム関連図書より、撮影日不明【時事通信社】
(以下、原則として事件関係者の呼称は主に当時の教団内の呼称に基づき、初出以外は略した)

◆1995(平成7)年、地下鉄サリン事件に日本中が震撼(しんかん)した◆
戦後50年の節目を迎えた95年、日本を震撼させた出来事が二つある。一つが阪神大震災、もう一つが地下鉄サリン事件だ。
確定判決などによると、松本は「ハルマゲドン(世界最終戦争)」の到来を説き、「救済」の名の下、日本国を支配する「王」になることを夢想。化学兵器サリン70トンを東京にまいて首都を壊滅させる無差別大量殺りくを考え、実際にサリン製造プラントを建設した。教団に対する強制捜査への動きを察知し、捜査をかく乱するため起こしたのが、3月20日の地下鉄サリン事件だった。東京都心の地下鉄で信者5人がサリンをまき、最終的に乗客や駅員ら13人が死亡、6000人超が負傷した。
国は、警察を中心に威信を懸けた「オウム壊滅作戦」に本格着手し、「麻原逮捕」に至るまでの58日間の「攻防」は劇的な展開を見せた。その「前史」から一連のオウム真理教事件を振り返る。

 

オウム真理教の松本智津夫・元代表
【教祖】1955(昭和30)年、熊本県生まれ。上京後の78年に結婚し、4女2男をもうけた。生まれつき目が不自由で、鍼灸(しんきゅう)師として生計を立てた。
仏教などに傾倒し、ヨガ教室を開いて指導に当たり、84年ごろ「オウム神仙の会」を発足させた。空中に浮揚しているように見える写真を公表し、超能力を開発できる修行方法があると説いて会員を集めた。87年には自らを最終解脱者とし「グル(尊師)」と自称、団体名を「オウム真理教」に変更した。

山梨県上九一色村(当時)に建てられたオウム真理教の施設。手前は教祖居住区の「第6サティアン」。後方は富士山
【オウム真理教】オウム真理教は「真理に基づいた社会、理想郷(シャンバラ)を建設する」と唱えた松本智津夫・元代表の下、88年に富士山総本部(静岡県)を建設し、89年には宗教法人認可を取得して、急速に勢力を拡大。やがて国内の信者は1万人を超え、ロシアなど海外でも信者を獲得した。その多くは20~30代の若者で、高学歴者も目立った。94年には、オウム国家の建設に向けてひそかに、国家体制を模した「省庁制」を教団内に敷き、自らを「神聖法皇」と称した。

坂本堤弁護士(左)と妻の都子さん(右)、長男の龍彦ちゃん

【弁護士一家失跡】オウム真理教では、出家信者は教団に全財産を委ね、肉親や友人との関わりを断つよう求められた。出家した子どもたちを教団から取り戻そうとした親たちが「被害者の会」を結成したが、その活動を支えた横浜市の弁護士一家3人が1989年11月に突然姿を消した。
教団信者6人が実行役となり殺害したと後に判明、オウム3大事件の一つに数えられる。松本智津夫・元代表は、「地獄に落ちる悪業を積んだ者を殺して天界へ上昇させるのは善行」という「タントラ・ヴァジラヤーナ(秘密金剛乗)」の教えを説いて殺人を「ポア」と呼び、この言葉を使って同弁護士らの殺害を指示したとされる。

松本サリン事件発生から一夜明け、報道陣であわただしい現場周辺マンション=1994年6月28日、長野県松本市

【松本サリン①】オウム3大事件の二つ目は松本サリン事件だ。日本シャンバラ(理想郷)化計画を唱えた松本智津夫・元代表は、90年の衆院選に信者らと立候補したが惨敗。これを転機に、合法ではなく非合法の手段で「救済」の計画を進める方針を説き、教団の武装化を進め、猛毒のボツリヌス菌や神経ガスのサリン、VXといった生物・化学兵器が開発された。
松本サリン事件は94年6月27日に発生。教団をめぐる訴訟を担当していた長野地裁松本支部を狙い、サリンの殺傷能力のテストを兼ね、教団信者7人が松本の指示に基づきサリンをまいたとされる。

サリン中毒でザリガニや魚が死んだ池を調べる長野県警の捜査員たち=1994年6月28日、長野県松本市
【松本サリン②】松本サリン事件で、実行役の教団信者らは、住宅街にある裁判所官舎近くの駐車場に、サリン噴霧用に改造したトラックを乗り入れ、サリンを噴まいた。周辺の住民8人が死亡、約600人の重軽症者が出た。

退院後、弁護士宅で会見する河野義行さん=1994年7月30日、長野県松本市
【松本サリン③】長野県警は当初、第一通報者の河野義行さん宅を家宅捜索。被害者でもある河野さんを容疑者扱いする報道被害も起きた。河野さんの妻澄子さんはサリン中毒で意識が戻らないまま、2008年に亡くなった。

山梨県上九一色村(当時)にあったオウム真理教施設。手前が「第7サティアン」で、後方が「第10サティアン」=1995年5月6日(時事通信ヘリより)
【疑惑】サリン製造プラントは、上九一色村の第7サティアンにあった。周辺でサリン残留物質が検出され、95年元日の読売新聞がその事実を報道したのをきっかけに、教団は捜査の手を恐れ、プラントの稼働を停止。警察と教団の「水面下の攻防」が緊迫の度を増していく。

目黒公証役場事務長が拉致された現場=1995年3月4日、東京都品川区

【公証役場事務長拉致】95年2月28日、目黒公証役場事務長の仮谷清志さん=当時(68)=が東京都品川区の路上で拉致される事件が発生した。警察は遺留指紋などから、オウム真理教信者が関わったとの見方を強め、この事件を突破口に教団を強制捜査する方針を固める。
仮谷さんは、教団への出家をやめた妹の居場所を自白させようとした教団信者らに、山梨県上九一色村(当時)の教団施設で麻酔薬を大量投与され死亡、遺体は焼却されたと後に判明する。

多数の消防車、救急車が集まった地下鉄日比谷線築地駅前=1995年3月20日、東京都中央区
【地下鉄サリン①】地下鉄サリン事件は、警視庁などがオウム真理教を強制捜査する矢先の95年3月20日に発生した。東京・霞が関に向かう営団地下鉄(現東京メトロ)丸ノ内、日比谷、千代田各線計5電車で、朝の通勤ラッシュ時、実行役の教団信者計5人がサリン入りビニール袋に傘を突き立てて穴を開け、サリンを発散させた。

地下鉄サリン事件で神谷町駅構内から運び出され、路上で救援を待つ乗客ら=1995年3月20日、東京都港区
【地下鉄サリン②】地下鉄サリン事件は、最終的に乗客と駅員計13人が死亡、6000人以上が重軽症を負い、オウム3大事件の中でも最悪の惨事となった。
松本智津夫・元代表は、間近に迫った強制捜査を阻止するため、教団「科学技術省」の村井秀夫大臣(当時)の提案を受け入れ、村井に総指揮を命じたとされる。他に、実行役への指示、送迎、サリン製造に関与した信者がいた。

サリンがまかれた地下鉄車両を洗浄する陸上自衛隊化学防護隊=1995年3月20日(陸自提供)
【地下鉄サリン③】首都東京の都心で化学兵器が使用されるという犯罪史上例を見ない緊急事態に、陸上自衛隊の化学部隊も出動した。

毒物検知用のカナリヤの入った鳥かごを手にオウム真理教施設の家宅捜索に向かう捜査員=1995年3月22日、山梨県上九一色村(当時)

【強制捜査】警視庁と山梨県警の合同捜査本部は3月22日、目黒公証役場事務長の逮捕監禁容疑でオウム真理教に対する強制捜査に着手した。上九一色村や東京都内などの教団関連先を一斉に捜索。サリン散布を警戒し、防毒マスクを着けた捜査員や機動隊員らが決死の覚悟で捜索に臨んだ。

家宅捜索で「第7サティアン」から担架で運ばれる衰弱したオウム真理教信者=1995年3月22日、山梨県上九一色村(当時)
【信者保護】捜索を受けた上九一色村の教団施設では、中にいた信者約50人が保護された。衰弱のため病院に運ばれる者もいた。

防毒マスクを着け、「第6サティアン」の倉庫前に運び出した薬品(フッ化ソーダ)の袋を調べる捜査員=1995年3月23日、山梨県上九一色村(当時)
【薬品押収】オウム真理教施設への家宅捜索では、サリンの原料になる大量の薬品が押収された。合同捜査本部は、サリンが製造された疑いが濃厚になったとして、3月26日には殺人予備容疑による捜索にも着手した。

国松孝次警察庁長官(当時)が銃撃されたマンションの入り口=1995年3月30日、東京都荒川区
【警察庁長官銃撃①】オウム真理教への捜査と新たなテロへの厳戒態勢が続く中、3月30日、警察組織のトップである国松長官が自宅マンションの玄関を出ようとした際、何者かに銃撃される事件が発生した。「警察への挑戦」と受け止められ、大きな衝撃が走った。犯人は逃走した。

狙撃事件後、つえを突いて登庁する国松孝次警察庁長官(当時、中央)=1995年6月15日、東京・霞が関の警察庁玄関前
【警察庁長官銃撃②】犯人が発射した4発のうち3発が国松長官の腹部などに命中。国松長官は8時間以上に及ぶ緊急手術で一命を取り留めたが、犯人は逃走した。
後に、教団の信者だった警察官(懲戒免職)が「自分が撃った」と供述。しかし、供述の信用性に疑問符が付き、警視庁が2004年になってこの元警察官と教団幹部2人を殺人未遂容疑で逮捕したものの、結局、不起訴処分となった。捜査の時効が成立し、真相は解明されなかった。

記者会見するオウム真理教スポークスマン(外報部長)の上祐史浩「外務省」大臣(当時、右)と村井秀夫「科学技術省」大臣(故人)=1995年4月7日、東京・有楽町の日本外国特派員協会
【オウム記者会見】オウム真理教は強制捜査の開始後もたびたび、記者会見や声明でサリン製造などの疑惑を否定、「宗教弾圧だ」などと主張した。外国プレスの取材に応じ、流暢な英語で質問に答えたスポークスマンも、うそをつき通した。

オウム真理教所有の旧ソ連製ヘリコプター「ミル17」の内部を捜索する捜査員=1995年4月8日、静岡県富士宮市
【ヘリコプター捜索】教団はロシアからヘリコプターを購入しており、操縦訓練を行った信者もいた。後に判明する、東京上空からのサリン大量散布計画は、単なる絵空事ではなかった。

旧ソ連製の自動小銃「AK47」をモデルにした自動小銃(下)と部品。山梨県上九一色村(当時)のオウム真理教施設「第2サティアン」の柱の中に隠されていた=1995年7月15日、東京・霞が関の警視庁

【自動小銃製造容疑でも捜索】オウム真理教信者の車からは自動小銃の部品が押収されたため、警視庁は4月8日、武器等製造法違反容疑でも、山梨県富沢町(当時)の教団施設「富士清流精舎」を家宅捜索するなど本格捜査に乗り出した。
松本智津夫・元代表は東京にサリンを散布するとともに、武装した教団信者で首都を制圧するため、自動小銃1000丁を密造しようと考え、1丁が実際に完成していたことが後に判明する。