習志野市    歴史③

習志野市      歴史

 

平安時代末から戦国時代

鎌倉時代末に編纂されたと考えられている歴史書『吾妻鏡あずまかがみ』には、治承4年(1180)10月に、源頼朝が「鷺沼御旅館」に滞在していたという記事があります。平治の乱で平氏に敗れ伊豆に流されていた源頼朝は、この年8月に挙兵しますが、石橋山の合戦で敗れて安房国に逃れました。そして上総国の上総広常や下総国の千葉常胤など豪族の支援を受けて再挙をはかり、東京湾沿いに軍勢を進め、最終的には10月6日に鎌倉に入りました。この記事はその途中、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)に入る直前のことです。この「鷺沼御旅館」のあった場所はわかっていませんが、習志野市の鷺沼付近であるという説があります。
室町時代~戦国時代の合戦を描いた軍記物語(『房総里見軍記』『関八州古戦録』など)には、鷺沼源吾・鷺沼源太・鷺沼七郎兵衛といった名の武士が出てきます。「常総軍記」(赤松宗旦『利根川図志』に引用)では千葉勝胤(天文元年(1532)死去)の家臣として「鷺沼に木村十太夫」が配置されていたと記されています。ただし、これらの軍記物語は江戸時代になってから作られたもので、明らかな誤りや創作も多いため、こうした記事を歴史的事実としてそのまま信用することはできません。中世、習志野市域は千葉氏一族の勢力下にあったと考えられますが、当時の文献はほとんど残っていないため、どのような村があって誰の支配下にあったのか、といった実態は不明です。
市内ではまだ明確に中世の集落跡といえる遺跡は発見されていませんが、中世の遺跡としては、実籾3丁目遺跡では道路跡・地下式坑を伴う台地整形遺構が発見されました。また、実籾城跡では土塁や堀などが確認されており、砦として使われたのではないかと考えられます。したがって、実籾本郷に中世の集落があった可能性は高いと思われます。
江戸時代初期、市域では谷津・久々田・鷺沼・藤崎・実籾本郷に村があったと考えられますので、中世には、それらの村のもととなった集落がおそらくは形作られていったのではないかと推測されます。

つづく