習志野市 歴史
近代
明治6年(1873)、今の習志野市・船橋市・八千代市にまたがる小金牧の一部が陸軍の演習場となり、明治天皇が「習志野原」と命名しました。明治22年には谷津・久々田・鷺沼・藤崎・大久保新田の5村が合併して人口約4千5百人の津田沼村が誕生し、明治36年には津田沼町となります。実籾・屋敷は幕張村、のち幕張町の一部となります。
演習場に引き続き、明治29年に高津廠舎(日露戦争・第一次世界大戦中にはロシア兵・ドイツ兵の捕虜収容所が置かれる)、明治32年に大久保の騎兵旅団、同40年津田沼の鉄道大隊(のち鉄道第2連隊)が置かれるなど軍関連施設が建設されました。一方、明治28年の総武線津田沼駅、大正10年代の京成線各駅の開業など鉄道も発展します。こうした軍隊と鉄道の存在は、町並みの発展に大きな影響を与えました。
幕末 船橋戦争
幕末、船橋で大きな戦争があったことを知っている人は少ないようですが、この戦争は、当時最強と言われた薩摩(鹿児島)藩を主力にした官軍と、西洋式の装備で固めた旧幕府軍が、正面からぶつかるという激しい戦いでした。
慶応4年(1868年)閏4月3日。市川から船橋にかけての各地で戦闘が始まります。最初優勢に見えた旧幕府軍も、やがて兵力と武器で圧倒する官軍の攻撃にたまらず、船橋大神宮に追い込まれてしまいます。ここで、官軍は船橋の街に火をかけて火攻めにします。支えきれなくなった旧幕府軍は成田街道や千葉街道を退却し、戦いは官軍の勝利となりますが、これ以後も旧幕府軍はゲリラ戦で抵抗し、房総の各地で小規模の戦いが続きます。
この戦いで最も大きな被害を被ったのが船橋宿の人々でした。官軍が放った火は船橋宿を焼き尽くし、874軒、4,727名が焼け出されました。身一つで逃げ出した人々は隣村の谷津村などに避難をします。この時の戦争の唯一の体験記と言われる『懼畏記』には、頭の上を鉄砲の弾が飛び交う恐ろしさや、戦火に焼かれる町の様子などが克明に記録されていますが、この『懼畏記』に、多くの避難民を助けた人物として「谷津村・栄次郎」の名前が出てきます。記録には、栄次郎の家に逃げ込んだ人は数百名と書かれており、家の中も外も避難民であふれていたといいます。また、栄次郎をはじめ谷津村の人々は、戦後の復興のため多くの義援金を出しています。隣村の不幸を黙って見逃すことができなかったようです。
「船橋戦争の戦況」
船橋の戦争は、谷津村の人々の生活にも影を落としました。古老の聞き書きによると、谷津村の人々は放火を恐れ、戦いの後しばらくは夜でも家の外にいることが多かったといいます。また、官軍のために荷物を運ぶことを命じられた男たちのなかには、官軍の兵隊の目を盗んで、荷物を途中の畑の中におっぽり出して逃げてきた猛者もいたそうです。「千葉街道を何人も、血だらけになった侍が銃や刀を杖に逃げていく姿を見た 。子供の頃に目撃した光景は忘れられない」こう語った老人の話からは、戦いの悲惨さと、滅びていく幕府の哀れな最期が伝わってきます。
つづく