習志野市 歴史
明治 – 昭和
1888年(明治21年)、町村制施行により、谷津、久々田、鷺沼、藤崎、大久保新田(後の大久保)の5村が合併して、人口約4,500人の千葉郡津田沼村が誕生した。「津田沼」の名は、谷津の津、菊田(久々田)の田、鷺沼の沼を合わせたものである。一方、実籾村は馬加村などと合併して幕張村となった。1895年(明治28年)、前年開通した総武鉄道に津田沼駅が出来る。1903年(明治36年)には津田沼村が町制を敷き、人口約6,000人の津田沼町となった。
1873年(明治6年)、小金牧の大和田原(現・千葉県船橋市習志野台から高根台周辺)で明治天皇御覧の下で陸軍による演習が行われた。後に明治天皇によって、その地は「習志野原」と命名され、陸軍の演習場となった。なお、演習場の敷地は、その後、拡張され、現在習志野市・八千代市の一部の広大なものとなった。※一説には篠原国幹少将による指揮に感銘し、そのときの天皇の発言(「篠原を見習え」>習え篠原>習志野原)がもととなったという。後に陸軍によって買収され習志野演習場となった。
陸軍習志野練兵場には日露戦争の時に捕虜の収容施設が作られ、ロシアの捕虜が、また、第一次世界大戦の時には、ドイツやオーストリア=ハンガリーの捕虜が収容された。大久保には、第十三・十四・十五・十六の4つの騎兵連隊と陸軍衛戍病院(現在の千葉県済生会習志野病院)がおかれ、第1・第2の2つの騎兵旅団が編成された。昭和に入り騎兵連隊が中国大陸へと進駐すると、後には陸軍習志野学校や戦車第2連隊が置かれるようになった。また、近隣の藤崎に騎砲兵第2連隊が、実籾には東西の高津廠舎と糧秣廠倉庫が置かれた。 津田沼には鉄道第二連隊が置かれ、松戸から津田沼までに演習で路線が引かれ、それが現在の新京成電鉄となった。
こうして津田沼町の一帯も含む広い地域が「軍郷」とよばれ、軍隊の街「習志野」が成立した。近年では旧日本陸軍軍用跡地に毒ガス弾が埋設され残っている問題が浮上した。環境省が調査を行っているが、旧日本陸軍習志野駐屯地跡地のある船橋市・八千代市など近隣市町村にまたがる広域の問題となっている。