習志野市  軍郷習志野

習志野市    軍郷習志野

習志野原はかつては大和田原と呼ばれ、松原の広がる広大な原であったが、明治初期に陸軍の演習が行われて以来、陸軍の駐屯地になり、今では自衛隊がおかれている。

この習志野という地名は、明治以降の新地名であり、明治天皇が名づけたことになっている。すなわち、1873年(明治6年)4月に近衛兵の大規模な演習があり、その演習に明治天皇が観閲し、陸軍大将であった西郷隆盛や後述する篠原国幹が同行している。演習には、薩長、土佐出身の四個大隊二千八百名の近衛兵が率いられ、参加した。そして、その演習が無事終わった5月になって、この地を「習志野ノ原」と命名する旨、明治天皇の名で触れだされている。それで、明治天皇所縁の地名になったわけだ。

その由来については、演習をおこなう原という意味で「ならし運転」の「ならし」の原から「ならしの原」になったという説と、演習に参加して活躍した篠原国幹少将に皆見習えという意味で「習え篠原」から名付けられたという説がある。篠原国幹は薩摩出身で戊辰戦争に参戦、陸軍創成期に陸軍大佐、のち少将で近衛局出仕から長官となり、西郷隆盛が征韓論で下野すると、それに続き西南の役で政府軍と戦い、戦死した。

習志野原は前述のように陸軍が演習を行い、駐屯していた場所であり、現在の船橋市習志野、習志野台、三山から習志野市東習志野、大久保にかけて、兵舎や練兵場などがあった。
もちろん、現在の陸上自衛隊習志野駐屯地内にも、いろいろ戦争遺跡がのこっているが、冒頭に写真を掲げた空挺館は、明治天皇が騎兵の演習を見るためにつくられた馬見所で、目黒の騎兵学校にあったものが、1916年(大正5年)に騎兵学校が当地に移った際に移築されたものである。
また、習志野駐屯地内には、空の神兵の像や軍馬慰霊之碑などがある。空の神兵像は、古賀忠男が1942年(昭和17年)に大東亜戦争美術展で朝日新聞賞を受賞した「天降る像」をもとに、戦後になって建てられたものである。軍馬慰霊之碑は、日露戦争時の騎兵旅団長であった秋山好古陸軍大将の揮毫である。
習志野原練兵場

習志野原は、元は大和田原と呼ばれる三山村ほか7ヶ村の入会地であったが、下野牧と合わせた約520haの広大な土地が、軍に買い上げられ、前述のように「習志野原」として陸軍の練兵場となった。この「習志野原」という地名、明治天皇の御製というが、最初は「習志野ノ原」であったが、いつしか「習志野原」となり、近隣の学校の校歌にはたいていこの言葉が入っている。
徐々に陸軍練兵場としての施設整備がなされ、明治29年(1896)には、今の習志野市東習志野に高津廠舎(第1次世界大戦中に東西に分割)が建てられた。
日露戦争に備えて、1899年(明治32年)に騎兵連隊を習志野におくことが決定されて以降、大久保には騎兵第13、14連隊(騎兵第1旅団)、第15 、16連隊(騎兵第2旅団)や旅団司令部、陸軍病院など軍の施設が次々に建設された。現在、騎兵第13連隊の跡地は、東邦大、騎兵第14連隊の跡地は、日大生産工学部、東邦大薬学部、騎兵第15連隊の跡地は、東邦中学・高校など、騎兵第16連隊の跡地は、千葉大腐敗研究所として利用されたが、電源開発社宅ほかの住宅、保育所となっている。高津廠舎の跡地は、東廠舎がJFE建材に、西廠舎が習志野四中、東習志野小などとなっている。糧株廠は、現在の習志野高校の場所に置かれ、主に騎兵連隊の馬草の倉庫とされた。
さらに、1935年(昭和10年)には、現在の藤崎5丁目に騎砲兵大隊が置かれ、翌年この大隊は騎砲兵連隊に改編された(兵員約3000名)。騎兵たちは「一望千里」と言われたこの習志野原で、猛訓練に明け暮れる日々を過ごしてきたが、第一次世界大戦で戦車や毒ガスなどの新兵器が登場すると、騎兵の時代は終わりを迎える。

1932年(昭和7年)、騎兵第1旅団は満州に移転し、1933年(昭和8年)には、騎兵第13連隊の跡に第16連隊が移り、第14連隊の跡に戦車第2連隊が置かれた。また、第16連隊の跡は、毒ガス戦に備えた化学兵器の開発、毒ガス戦訓練を行う「陸軍習志野学校」となった(「陸軍習志野学校」については、別途詳述するが、最近毒ガスが残留している可能性が指摘され、今なお住民の不安は拭われていない。2004年の環境庁の突然の発表などとあわせて、長年にわたり調査、発表せず放置した政府の責任が問われる問題となった)。
さらに、1941年(昭和16年)には騎兵第2旅団も満州に移転し、習志野騎兵連隊の歴史は閉じられた(この時、第15連隊の跡も、陸軍習志野学校になった)
なお、満州に渡った騎兵第1旅団は自動車化され、昭和17年(1942)には戦車第3師団となった。
戦後、軍は解体されたが、兵舎などの軍の設備は、跡地に入った大学などにそのまま引き継がれ、一部は今も残存している。一部の兵舎、廠舎も戦後入ってきた開拓者の住宅として利用されたりした。ごく一部であるが、現在もその痕跡は見られる。
その他、皇族が軍隊演習を観閲した際の記念碑や演習をしている兵隊に昼を知らせた号砲台跡の碑(鈴木金属工場内)、軍馬の碑なども当地には残っている。
「習志野原」地名発祥の地を象徴する如く、「明治天皇駐蹕之処」の石碑があるが、かつては御幸台(習志野台四丁目)にあった、この石碑は仙台石製の高さ4mほどの大きなものである。

 

本日、習志野市藤崎自宅より依頼を受け、お伺い、車椅子にて

習志野市谷津 津田沼中央総合に通院治療をされ戻りました。