松戸市  コーヒー 「西郷どん」の時代から愛飲

松戸市

コーヒー 「西郷どん」の時代から愛飲 徳川慶喜・徳川昭武が織り成す物語

味わうことが地域活性化の糸口 ザザコーヒー、歴史ロマンを商品化
明治維新から150年。NHK大河ドラマ「西郷どん」でも描かれる徳川宗家存亡の危機。その危機の渦中にある最後の将軍徳川慶喜がコーヒーを嗜んでいた。さらには慶喜の実弟にあたる最後の水戸藩主徳川昭武もコーヒーを嗜んでいた。このロマンをまずは味覚で感じてもらい歴史への興味喚起や地域活性化を図ろうとしているのが茨城県ひたちなか市に本拠を置くサザコーヒー。同社は慶喜のコーヒーを再現した「徳川将軍珈琲」に次ぐものとして、今年、昭武の物語にちなんで開発した「プリンス 徳川 カフェ」を新発売した。

徳川昭武(左)と徳川慶喜(松戸市戸定歴史館所蔵)
嗜好品としての最初の記録 渋沢栄一・杉浦譲共著の「航西日記」
「食後カッフへエーという豆を煎じたる湯を出す砂糖牛乳を和して之を飲む頗る胸中を爽やかにす」――。これは渋沢栄一・杉浦譲共著の「航西日記」に収められている朝食の記事で、「恐らくコーヒーを嗜好品として明確に文字に記録して残った最初の例」と指摘するのは、史実面で「プリンス 徳川 カフェ」に開発協力した松戸市戸定歴史館の齊藤洋一館長。

UCCコーヒー博物館によると、コーヒーという言葉が出てくる最古の文献は天命2年(1782年)に発表された蘭学者・志筑忠雄の訳書「萬國管窺(ばんこくかんき)」で、そこには「阿蘭陀の常に服するコッフィというものは、形豆の如くなれども、実は木の実なり」と書かれている。

また同館によると、コーヒーを飲んだことを初めて記した日本人は長崎奉行所に赴任していた幕臣で狂歌師の大田南畝(蜀山人)だという。南畝は随筆「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」の中で「紅毛船にて『カウヒイ』というものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪えず」と書き残している。

そのほか、長崎・出島に出入りする通詞(オランダ語通訳)や宇田川榕菴も書き残しているが「北方警備の眠気覚ましに飲むとか、焦げ臭い、苦いといったものばかり。注目すべきは“頗る胸中を爽やかにす”という感想で、コーヒーの味自体を楽しんだという文字記録は航西日記以前のものは知られていない」という。

「航西日記」は渋沢栄一と杉浦譲が1867年(慶応3年)に徳川昭武の随員としてフランスを訪れた際の体験記。昭武は、水戸藩主徳川斉昭の一八男として生まれ、1867年1月、御三卿の一つ清水徳川家を相続。その翌月に、次期将軍の有力候補という触れ込みで、将軍の名代として幕府が初めて公式参加する万国博覧会の開催地・パリへと旅立ったのだった。当時15歳。

渡欧目的は、万博という国際政治の桧舞台に参加することで幕府の威信を示すことと、欧州各国歴訪、長期留学にあった。さらには「昭武渡欧に関する資料には直接書かれていないが、日本が有力な投資先であることを印象づけるために渡欧した。資金調達によって軍事システムをフランス式に変え軍事的優位に立つ薩長を圧倒しようとしたとみている」。

齊藤館長がその根拠として注目するのは石井孝氏の研究である。それによると、幕府は600万ドルもの巨額な資金調達を試みていた。それを確実なものとするために、幕府の象徴である昭武が渡欧しナポレオン三世と親交を結ぶ必要があったと齊藤館長は考えている。

昭武 渡欧時に飲用「渋沢氏の部屋でコーヒー」
1867年7月1日、パリ万博の表彰式が開かれ、昭武は各国の王族や皇族とともに列席。その後、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスの5か国を歴訪し11月末から留学に専念し始めた頃、幕府が終焉を迎える。

翌年5月に新政府からの帰国命令が届き、昭武は帰国を決意。帰国前のフランス国内旅行時に昭武はコーヒーについて触れている。

昭武が日本語とフランス語で自ら筆をとった日記などを翻刻・翻訳・編纂した「徳川昭武幕末滞欧日記」(松戸市戸定歴史館)には、西北部の港湾都市シェルブールで「海水浴客用施設に足をとめ、そこで海原を眺めながらコーヒーを喫む」(8月2日)、「海岸で気持ちよくコーヒーを味わう」(8月3日)と記されている。

また同月7日には、西部のブルターニュ地方で「夕食後、渋沢氏の部屋でコーヒーを飲んでいると、シャン・ド・バタイユ(戦場)広場で演奏されていた音楽が聞えた」と書かれている。

「プリンス 徳川 カフェ」は、パリをたち紅海を航行している際に「有名なモカの街が見えた。この辺りは優れたコーヒーを産するとのこと」(11月1日)と記した点に着眼し、イエメン産とエチオピア産のコーヒーをブレンドしフレンチロースト(深煎り)した。

サザコーヒーの谷口肇営業部部長は「エチオピアやイエメンのコーヒー豆は当時、モカ港から世界へと出荷されていた。このような歴史があって両国産のコーヒー豆をモカと呼ぶようになった」と説明する。

商品名は、パリ万博に集った各国皇帝・国王らが昭武を次期将軍として処遇したこと、イギリスの新聞に「プリンス・トクガワ」と紹介されたこと、自筆仏文日記にコーヒーのことを「cafe(カフェ)」と記したことにちなんでいる。

慶喜が英仏蘭米の四か国代表を大阪城でもてなした際のメニューの一部。2枚目(下段)にコーヒーの記載(傍線部)がある 出典:続通信全覧
慶喜 命運かけた接待 フランス料理とコーヒーで
一方、「徳川将軍珈琲」は、1867年4月、昭武がパリに滞在している頃、慶喜が英国公使パークス一行をはじめとする英仏蘭米の四か国代表を大阪城に招きフランス料理でもてなした際に提供したコーヒーを史実に基づき再現したもの。

この晩餐の約8か月前、長州との戦いの最中に十四代将軍家茂が没し幕府は完敗。幕府の権威が失墜する中、当初固辞したものの紆余曲折を経て将軍職に就いた慶喜は、四か国代表を大坂城(大阪城)に招くことで将軍の威力を示し権力を掌握したことを知らしめようとしていた。

幕府の命運をかけた外交儀礼のため、ここでの接待はロッシュの助言の下、フランス人シェフを雇い本格的なフランス料理を振る舞う手の込んだものとなった。

このときの様子を記録している「幕末維新外交史料集成」(第一書房)によると、4月29日(慶応3年3月25日)は、パークス一行をフランス料理15品、デザート10品、酒類5種類でもてなし、食後に「御席替り候而 コーヒー 巻煙草 リキユール酒九品」と記されている。

コーヒー豆の品種・産地には触れていないが、当時のコーヒー豆の流通は「モカ・ジャワ」時代と言われ、ブラジルやコロンビアなどの中南米のコーヒー豆はまだ世界には出回っておらず、オランダが全盛期で60%を占めていたとされる。

「徳川将軍珈琲」は、このようは背景とフランス人シェフが料理を手掛けたという史実に基づき、オランダ領であるインドネシアの北スマトラ(インドネシア)の最高級マンデリンを使用しフレンチローストに仕立てたものとなっている。

その開発にあたっては、自ら申し入れてサザコーヒーで焙煎修行した慶喜の曾孫にあたる徳川慶朝氏(故人)と共同で行い04年に販売開始。今ではサザコーヒー約20種類のラインアップの中でフラッグシップの「サザスペシャルブレンド」に次ぐ売れ筋商品となっており、昨年は2割強伸長したという。

コーヒーで広がる縁
時計の針を19世紀に戻すと、明治政府樹立後も、慶喜は静岡でコーヒーを飲んでいた。明治26年6月23日の「徳川慶喜邸日誌」(松戸市戸定歴史館蔵)には「コーヒー御払底相成候ニ付、至急廻方之儀、幸便、千駄谷へ申遣候事」と記されている。

この一文について齊藤館長は「コーヒーがなくなってしまったので至急届けてくれるように東京千駄ヶ谷の徳川宗家に依頼したもの。『至急』の言葉は慶喜が相当なコーヒー好きであったことをうかがわせる。“送ってほしい”“届いた”といった内容のやり取りが事細かに記録され、気の使い方が尋常ではなかった印象を与える」と解説する。

一方、昭武は明治16年に水戸徳川家当主の座を篤敬に譲って隠居し、その翌年、現在の松戸市戸定歴史館の地にある私邸「戸定邸」に移り住む。戸定邸は、明治時代の徳川家の住まいがほぼ完全に残る唯一の建物で昭武自らが建設を指揮した。

戸定邸でコーヒーを嗜んだという資料は残されていないが、「特別なことが日常化すると資料から消えていく」のだという。ただし「慶喜が死ぬまで手元にあった資料によると、詳細なアイスレシピがあり、そこにはコーヒーを入れてもよし抹茶とあわせてもよしと書かれていた。無記名のレシピを書いたのは昭武、という結論に達した」という。

戸定が丘歴史公園は近代徳川家の住まいと庭園が一般公開されている唯一の場所となっている。園内には、戸定邸や戸定歴史館、お茶室の松雲亭がある。戸定邸は国指定重要文化財、庭園は国指定名勝に指定されている。

戸定邸は入館可能で、現在、9棟が廊下で結ばれ部屋数は23を数える。昭武が建物との調和に心血を注いだという庭園も見ものとなっている。「調べれば調べるほど昭武の見識の高さ、素晴らしいセンスに魅了される。現在復元工事中で、写真や日記など190万部以上をデータベースにして調べている」という。

松雲亭では3月に「徳川昭武が飲んだコーヒーを味わう」と題したイベントを開催し「プリンス 徳川 カフェ」を提供した。

齊藤館長は、歴史や地域に関心を寄せるきっかけとしてコーヒーやコーヒーを含めた食に期待を寄せる。「歴史に全く興味がなくとも、コーヒーがあればもっと幅広い方とのご縁につながる。五感に訴える環境で上質な経験をしてもらえれば、その身体感覚を通じて歴史への関係を個性豊かに築けるのではないかと考えている」と語った。

コーヒーが産官学連携のマグネットにもなり得る。サザコーヒーは「プリンス 徳川 カフェ」の売上げの一部を松戸市に寄付。また同社が長年築き上げたパナマ農園との深い信頼関係を生かして「千葉大学・パナマコーヒー」の開発に協力し、売上げの一部が同大の教育・研究に役立てられるという。

齊藤氏
〈プロフィール〉齊藤 洋一氏(さいとう・よういち)=1958年東京都生まれ。早稲田大学大学院修了。「プリンス・トクガワの生涯」「没後100年 徳川慶喜」などの展覧会を企画。NHK大河ドラマ「徳川慶喜」の時代考証に協力

 

本日、松戸市五香自宅より依頼を受け、お伺い、車椅子にて

松戸市栗ヶ沢旭神経内科リハビリテーション病院に

通院治療をされ戻りました。