習志野市 歴史
近世
中世までは葛飾郡とされることもあったが、江戸時代初期に現市域内に分布した谷津、久々田、鷺沼、藤崎、実籾などの村々は千葉郡に属し、ほとんどが幕府領または旗本領となっていた。また、大久保新田が関西(おもに大阪府羽曳野市)からの移住者によって開発された。当時の資料には海岸部に谷津村や久々田村・鷺沼村などの地名が見られ、内陸の実籾村の北部には幕府によって小金牧が置かれた。藤崎村・大久保新田・実籾村には東金御成街道が通り、藤崎の名はその地を通った徳川家康が「藤咲」と名付けたと伝えられる。後に同地にある子安神社の祭神コノハナサク(咲)ヤヒメの名を憚って「咲」を「崎」に変えたという。また、屋敷台新田が馬加村(後に幕張)の一部となっていた。この海岸部の村々と内陸の台地の村々の二つの地域が、その後の習志野市の地理的な二大要素、すなわち後述の「津田沼」と「習志野原」を構成するようになるのである。
東京湾沿岸には海岸近くにまで下総台地が迫り、そこに三本の谷(谷津田)が刻まれている。ここに開けた水田の回りに開けた集落が最も西に位置する谷津、中央の久々田とその上流に位置する藤崎、東の鷺沼であった。