市川市   地方議員「なり手不足」

市川市    地方議員「なり手不足」は議員報酬アップだけで解決しない

 

地方議会の危機が叫ばれています。メディアには地方議員のなり手不足を伝えるニュースが目立ちます。地方議会は住民自治の根幹をなす大事な存在です。背景には地方の深刻な人口流出・減少などがありますが、どうすれば地方自治を活性化できるのか。慶應義塾大学SFC研究所の上席所員で起業家の岩田崇氏に寄稿してもらいました。

補選への立候補ゼロの事態も現実に
8月に共同通信による全国の議長を対象としたアンケート結果が発表され、地方議会のなり手が不足していると全国の議長の52%が感じていることが報じられました。

また“「出るなら離婚」、「賢い人は出ない」深刻な市町村議員なり手不足”とのショッキングな見出しの記事が6月4日付の東奥日報で配信されました。5月末には宮崎県五ケ瀬町議の補欠選挙で立候補者がゼロだったため、選挙が行われなかったことがニュースになりました。

五ヶ瀬町では、欠員1の状態で議会は継続されることになりましたが、いわゆる“地方議員のなり手不足”を象徴する出来事だといえます。その背景には、議員報酬が低いことや政務活動費制度がないため、若い人や働き盛りの人ほど敬遠してしまうことが指摘されています。

では、報酬や活動費を増やせば、なり手不足の問題は解消するのでしょうか?
大川村のニュース、覚えていますか?
昨年5月、高知県大川村の村長が“村議会廃止、町村総会を検討”と新聞に報じられたことで一躍全国の注目を集めました。村の人口が全国でも最小規模である約400人であること、「町村総会」という住民が直接集まって地域の課題を話し合う“直接民主制”が実現すると、66年前に八丈島で20数名規模で行われて以来の歴史的な取り組みとなることなど、人口減少に直面する日本各地の近未来を暗示するような捉えられ方もありました。

その後、9月の定例村議会で、村長から町村総会の検討の中止と議会維持への注力が表明され、騒ぎは落ち着いたようにも見えます。しかし、この大川村の出来事は、私たちが先送りにしてきた「面倒な事実」に光を当てました。

先送りにしてきた面倒な事実とは何でしょうか。日本は主権が国民にあり、地域のことは住民が中心となって自治を行う「住民自治」が社会システムの基礎にありますが、その方法、手段はとても貧弱であるという事実です。

総務省研究会の提案と現場からの評価
大川村のニュースを受けた国の対応は、異例とも言えるスピードでした。昨年7月には総務省が「町村議会のあり方に関する研究会」を設置。それから約9か月後の今年3月に報告書をまとめ、公開しました。

この報告書は大川村の動きに応える形で、町村総会について「実施は難しい」と結論すると同時に、既存の地方議会に対して「集中専門型」と「多数参加型」という2つのパッケージを、報告書の表現を借りると“多様な民意を反映させる機能”として提示しました。

しかし、もともとなり手がいない状態に屋上屋を重ねるような提案することに無理があるとも考えたようで、併せて「議会参画員」という制度も提案しています。これは、くじ引きなどの形で選ばれた住民(※議決権はない)が議会議員と議論を行う機会を設けることで、“住民が議会に関わる経験を得られる仕組み”とのことです。

この研究会の報告書に対して、地方自治の現場からの反応は芳しくありません。

全国町村議会議長会は「報告書に対する意見」を総務省の報告書と同じ日に発表しました。この意見書では、もともとの研究会が設置された趣旨である町村議会の可能性を探るべきであるとし、全国の取り組みや現行制度への現場からの要望が検討されていないことや、今回の対象を町村とのみしたこと、さらにパッケージの提案は、国から地方議会への「義務付け・枠付け」となって、これまでの地方分権改革に逆行するものとして批判的に評価しています。

同じく、全国市議会議長会も「コメント」を同日発表しました。このコメントでも、地方議会の現場を意見聴取していないこと、議会の自主性・自律性の拡大に逆行することを挙げて批判しています。

現在の地方議会制度の中で、まだまだやれることも改善すべきこともあるのに、総務省の報告書では脇道に逸れたパッケージになっており、本末転倒ではないかというわけです。
曖昧な「町村議会」に政府が見解
一方、地方自治に詳しい研究者らは、憲法で市町村に議会を置くことを定めているのに、町村総会が実現すると憲法違反になるのではないか? との疑問を持ちました。憲法では以下のように記述されています。

【日本国憲法】
・第九十三条 地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。

この条文での「議会」という単語に私たちは、いわゆる議場のある議会をイメージしてしまいます。一方、地方自治法には次のように記されています。

【地方自治法】
・ 第八十九条 普通地方公共団体に議会を置く。
・第九十四条 町村は、条例で、第八十九条の規定にかかわらず、議会を置かず、選挙権を有する者の総会を設けることができる。
・第九十五条 前条の規定による町村総会に関しては、町村の議会に関する規定を準用する。

ここで町村総会という言葉が出てきます。第九十四条に“議会を置かず、選挙権を有する者の総会”とあり、これが町村総会に相当すると言えます。憲法は日本の法体系の最上位にあるので、地方自治法もそれに包含されて機能すると考えられますが、町村総会の位置づけについては「議会を置かず」とあるので、憲法にある「議会を設置する」という文言と齟齬(そご)があるようにも読めてしまい、スッキリしません。

そんな中で、今年の通常国会に質問趣意書が提出され、2月に回答が公開されました。これは「『町村総会』にかかる地方自治法の合憲性に関する質問主意書」とのタイトルで確認できます)。

政府の答弁は、“地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第九十四条の規定による町村総会は、憲法第九十三条第一項にいう「議事機関」としての「議会」に当たるものと考えている”というもので、「町村総会も議会に含まれる」ことを明確にしました。つまり、地方議会は今の形態が絶対的なものでなく、町村総会も含めて何らかの議事機関というものがあれば憲法違反にならない、というわけです。国会が憲法で一つの章(第4章)を割いて規定されていることに比べると、かなり自由度が高いと言えます。

地方自治における議会にはもっとクリエイティビティを発揮できる余地があることが国会のお墨付きで明らかになりました。

下がり続ける地方選挙の投票率
「主権」とは国家統治における最高権力です。日本の主権は私たちにあります。この「国民主権」が大前提となり、日本各地の地域、自治体の運営も住民が基点となります。しかし実感として、自分が暮らす市や町や村、あるいは都道府県の運営について、あなたがどのくらい基点となっているでしょうか?

現在の地方自治を、私は以下のようなイメージで捉えています。

[図]地方自治のコミュニケーション構造(筆者作成)
この図でもっとも太く、双方向なのは、国・県と自治体(役所)の間のコミュニケーションです。2000(平成12)年に行われた地方分権改革によって、国と地方自治体は「上下関係」ではなく、「対等な関係」であることが明文化されました。しかし実際は今も、国の各省から命令ではなく「要請・依頼」という形で、自治体(市役所や町村役場)に仕事が降ってきています。

住民は形としては基点ですが、意思表示の機会は、議会や首長選挙の投票、または意識調査への回答といった一時的なものに限られています。現実として、地方自治の現場は、住民の方を向いているより国の方を向いている方が仕事を進めやすい状況になっています。

こうした構造の下では、住民基点の地方自治はなかなか実現しません。それならもっと住民の方を向けばいいじゃないか、と考える人も多いと思いますが、どこかの会館や集会所で住民との対話ミーティングを開いても出席できる人は限られています。また、その成果を全住民に知らせる方法もとても限られています。あなたは住んでいる自治体の広報を読んでいますか?

グラフ]統一地方選挙における70年間の投票率の推移
住民基点、住民自治といっても、コミュニケーションのあり方は、憲法や地方自治法が成立した71年前から基本的に一方通行であり、大して進化していません。このことが、住民の地域への無関心や、やる気の低下を招いていると私は考えます。

このグラフは、戦後の地方選挙における投票率の変化です。かつて投票率は70%台から90%台までありました。最初の統一地方選挙は戦争が終った2年後に実施されました。ここには「社会のことを自分たちが参画して決められる」という期待感があったはずです。しかし、最近の投票率は40%台まで落ち込んでいます。20~30%台の投票率も珍しくありません(千葉県市川市の選挙では、票数が有効投票率の4分の1に届かず再選挙となりました)。ほぼ半減しているのです。

コミュニケーションを住民基点で再構築
「低投票率は良くない。政治や地域への関心を高めましょう」との指摘は間違ってはいませんが、正解ではありません。70年以上前のクルマや家電が骨董品であるように、70年以上前の仕組みをそのまま21世紀に使って「不便だなぁ」と思わない方がおかしいのです。この「不便だなぁ」を解消する方法は、最先端とまでは行かなくとも、現在のITや分析、コミュニケーション技術を地方自治でのコミュニケーションに応用することにあります。

江戸時代、藩政の下に地域の生活単位としてあった地方自治は、明治、昭和、平成の度重なる大合併で、市町村の統合が進みました。それを主導したのは国です。平成の大合併の主目的に挙げられたのは、市町村などの基礎自治体の財政力の強化でした。併せて、モータリゼーションの進展に伴う生活圏の広域化に対応できることも示されていました。しかし、ここには「住民基点」の視点が大きく抜けていました。お金と自動車(モータリゼーション)のことは視野に入っていても、コミュニケーションは視野に入っていなかったのです。この過程を通じて住民不在の自治体が一層増えることになりました。

平成の大合併を推進した自民党の元衆院議員、故野中広務氏は「私は今になって、やや、やりすぎたかなと思っているのです。後悔しています。(中略)これはもう三位一体の改革など地方切り捨ての財政が進んだために、小さな市町村が自分たちだけでは生きていけない状態に追い込まれて、やむを得ず合併していくという姿にまでなってきたということです」との言を遺しています。

2018年現在、日本にある市町村の数は1718です。1999(平成11)年には、3229の自治体があったので、ほぼ半減(47%)しています。

行政におけるコミュニケーションの構造は古いまま、一つの自治体の面積は広くなり、議員の数は減り、選挙や調査が惰性で行われるなかで、住民の声が一層届きにくく、国からの要請や依頼による仕事を受ける形で運営できてしまう地方自治体が出来上がっていったのです。

この状態で地域の課題解決を目指す議員は、決して高くない報酬、調査費などの経費の援護もほとんどなく、落選した場合などに元の仕事に戻る制度も整わず、住民とのコミュニケーション環境も旧態依然という中で、孤立無援に近い状態に置かれてしまいます。

つまり、地方議員のなり手不足の問題は、議員のお金に関わる制度の見直しだけでは解決しないのです。日本の市町村、各自治体には多くの課題が山積していますが、そこに通底しているのは、地方自治におけるコミュニケーションの軽視であり、一方通行のコミュニケーションに慣れてしまった行政の思考停止です。

議員という住民の代表が本領を発揮できる環境と、地方自治におけるコミュニケーション環境を住民基点で再構築することが、議員のなり手不足の解消には不可欠です。

一例を挙げれば、住民と議会が市町村長の提示する政策課題に関わるデータやメリット・デメリットなどの情報を共有し、その情報に基づいて相互に意思表示を行うことで、地域の課題解決力を住民基点で継続的に向上させるといった仕組みが考えられます。

一見遠回りに見えても、前例にとらわれずに本来あるべき地方自治コミュニケーションをつくり出すことが、これからの地方議員のなり手を育む近道です。
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■岩田崇(いわた・たかし) 1973年1月生まれ。「オープンな合意形成によってこれらの社会に求められるイノベーションが実現する」との考えのもとに特許、メディア開発などを行う研究者、起業家。栃木県塩谷町では『塩谷町民全員会議』を開発、運営し、2016年マニフェスト大賞コミュニケーション最優秀賞を受賞。サイト