松戸市 追悼C・アズナブールさん 弱い立場に心寄せた歌声
仏を代表するシャンソン歌手、シャルル・アズナブールさんが94歳で亡くなった。人生の悲哀をときに語るように歌うスタイルが愛され、何度も来日するなど日本でも親しまれた。歌手の由紀さおりさんとシャンソン評論家の大野修平氏が、豊かな表現力で弱者に寄り添って歌い続けた巨人への思いを語った。
■大野氏「歌と人間性が一致していた」
大野氏はアズナブールさんを「弱い立場の人の心に寄り添い続けた人だった」と悼む。
「パリ生まれだが両親はジョージアとアルメニア系移民。その苦労を見ていたからこそ、弱い立場の人へのシンパシーを持ち続けた」
その姿勢は終生不変で、コンサートの1曲目は必ず代表曲の一つ「移民たち(みんな一緒に)」を歌唱し「仏は移民の力で豊かになった、と訴え続けた」。
ハスキーな歌声で世界を魅了したが、デビュー直後には「ガサガサの声で『人前で歌う存在じゃない』とこき下ろされた」という。「ボイストレーニングを徹底的にやったはずだが『何もしていないよ』と言っていた。努力を決して明かすことはなかった」
作詞家としても先見性があり、1950年代、男女の睦み合いをあからさまに歌った「愛のあとで」は、当時、放送禁止に。70年代にゲイについて歌った「人々の言うように」は、「昨今のLGBT問題を先取りしていた」。国際障害者年の81年には愛することの尊さを歌った「声のない恋」など、「いつも弱い立場の人に心を寄せていた」。
平成3年の来日ツアーの最終コンサートは千葉県松戸市。「都内から松戸まで混んだJR常磐線で移動した際、車中で腰の曲がったおばあさんを心配して『大丈夫ですか』と声をかけ続けていた。歌う内容と人間性が本当に一致した人だった」と述懐する。
19年の来日ツアーに通訳として同行したときが直接言葉を交わした最後になった。ツアー中、毎日、微妙に変化する歌声を生で聴けることに「至上の喜びを感じた」という。「もうちょっと聴いていたかった」と巨星の死を惜しんだ。
■由紀さおりさん「多彩な表現力で現役貫く」
昭和48年、私は歌詞にアズナブールさんの名前が出てくる「恋文」(吉田旺作詞、佐藤勝作曲)を発表しました。彼の曲を聴きながら古風な候文(そうろうぶん)で恋文を書く女性を歌った内容ですが、彼が持つイメージと絶妙に結びつき、甘美な世界観を表現できたと思います。
一ファンとして、コンサートには10回以上、足を運びました。自分の息と速度を大事に、歌うというより語るように音楽を届けたシャンソン史に名を刻む歌手。私が最も好きな曲は「イザベル」です。「イザベル」の名を叫んだり、甘くささやいたり何度も呼ぶ。多彩な表現力で愛情が伝わってきます。この曲に限らず、独特のハスキーボイスや、歌いながらすっと歩くしぐさなどで大きな存在感を示しました。
94歳まで円熟味を増しながら現役を貫き、ずっと私の前を歩いていた。そんな先達を失い、今は寂しい気持ちでいっぱいです。(談)
Charles Aznavour 1924年、パリ生まれ。仏の伝説的歌手、エディット・ピアフに認められ「ラ・ボエーム」「世界の果てに」などがヒット。俳優として「ピアニストを撃て」(フランソワ・トリュフォー監督)など多数の映画に出演。南仏で死去したことを仏メディアが1日、報じた。