千葉市 大宮はこうして「鉄道の一大拠点」になった

千葉市     大宮はこうして「鉄道の一大拠点」になった

 

2001年5月1日、埼玉県浦和市・大宮市・与野市の3市が合併し、さいたま市が発足した。その後2003年にさいたま市は政令指定都市に移行。2年後には岩槻市も合併した。現在さいたま市は東京のベッドタウンとして発展を続けている。

しかし、さいたま市を構成するエリア同士が融合したとは言いがたい。浦和はかつての県都。さいたま市役所の庁舎も元の浦和市役所庁舎だった。一方で、大宮は交通の要衝を武器にさいたま市の経済発展をリードしているという自負がある。大宮の浦和への対抗心には並々ならぬものがある。
さいたま市になった旧大宮市域は、おおむね大宮区・西区・北区・見沼区の4区に分割された。大宮区は大宮駅を擁する、文字どおり大宮の中心地である。

■鉄道の街・大宮の歴史の始まり

大宮を繁栄に導いた大宮駅は、1885年に日本鉄道の駅として開業した。日本鉄道は東京から高崎を結ぶ路線を建設。これは現在の高崎線にあたる。建設する順番は逆になったが、日本鉄道にとって高崎線は支線的な扱い。本線は東京と東北を結ぶ、現在の東北本線だった。
高崎線の熊谷駅までを開業させた後、日本鉄道は東北本線を建設する準備を始めた。その際、どこから東北本線と高崎線とを分岐させるのかを決めていなかった。そのため、とりあえず熊谷駅から高崎駅に向かって延伸工事を進め、1884年に熊谷―高崎間を全通させた。

そして、東北本線の着工が間近に迫ると、栃木県足利の実業家たちが、熊谷から線路を分岐させて足利へ至る路線案を熱望し、鉄道当局に誘致を働きかける。

こうした誘致の動きに対して、建設責任者の井上勝は耳を貸さなかった。建設費・工期や開業後の営業利益などを総合的に試算した井上は、大宮で線路を分岐させるという決断を下す。ここから、鉄道の街・大宮の歴史は始まる。
東北本線と高崎線の分岐点に大宮駅が開設されると、状況は少しずつ変化していく。明治30年代に入ると、それまで生糸の生産が盛んだった群馬県よりも開港地・横浜に近く、交通の利便性が高い大宮がクローズアップされる。

1901年には長野県で製糸業を営んでいた片倉製糸が事業拡大のために工場を大宮に移転。そこから、大宮駅周辺には製糸場が続々と移転してくる。1904年には大宮館製糸所、1907年には大宮山丸製糸所、1911年には渡辺組大宮製糸所が続々と開所。大宮駅一帯は、“糸”の町と化した。

■横浜港までの輸送に鉄道が大活躍

同様の構図は、製茶業にも当てはまる。明治期から戦前期までは、大宮でも茶は盛んに栽培されていた。大宮で生産された茶は、横浜から海外へと輸出されるようになる。横浜港までの輸送に、鉄道が大活躍したことは言うまでもない。

明治の日本を支えた製茶と製糸という2大産業に加え、1894年には日本鉄道が大宮工場を開設していた。それが大宮を活性化させ、人口増加を招いた。

しかし、時代とともに大宮は都市構造の変化を迫られる。
明治以来、東京は大都市として発展を続け、1932年と1936年には周辺郡部を編入。大東京市が成立し、郊外の宅地化が加速した。それまでは農村でしかなかった渋谷や世田谷も都市化が進み、住宅地が造成されていった。そして、その波は埼玉県域にも及ぶ。

大宮では耕地整理組合が組織され、駅周辺の宅地化が急ピッチで進められた。住宅地の造成と歩を合わせるかのように、1932年には赤羽駅―大宮駅間が電化。同区間で電車線となる京浜東北線が運転を開始する。
京浜東北線の川口駅―大宮駅間の輸送人員は、京浜東北線運転開始年度の1932年が611万人。対して、1937年は1154万9000人と倍増。その数字からも、東京近郊の宅地化が進み、都心への通勤・通学需要が増えたことがうかがえる。

明治以降、鉄道の力で都市化が進んだ街は大宮以外にもある。しかし、それら鉄道の力によって都市化した街の多くでは、官営鉄道(現・JR)のみならず、私鉄が乗り入れている。なぜなら、官鉄と私鉄とが切磋琢磨することで都市が発展するからだ。
しかし、大宮には官鉄しか乗り入れていなかった。本来、大宮ほどの人口規模・産業のある都市なら私鉄が進出してきてもおかしくない。むしろ、大宮に私鉄が進出しなかったことは不自然だった。

大宮に私鉄が進出したのは総武鉄道(現・東武野田線)が大宮駅に進出した1929年のことだ。総武鉄道は、野田の地場品であるしょうゆを一大消費地の東京に輸送する目的で建設された。そのため、野田から柏方面へのルートを優先し、都市化した大宮までは後回しにされた。

それでも、総武鉄道が開業すると、大正末から大宮に形成されていた盆栽村がフィーチャーされる。盆栽村に光が当たったことで、大宮の盆栽業は活況を呈した。現在も、世界的な盆栽の産地となっている。

実は、大宮の発展が目覚ましくなっていた頃、東京と大宮を結ぶ私鉄構想も浮上していた。秩父鉄道経営者の諸井恒平や京阪電気鉄道の経営者だった太田光凞(みつひろ)が発起人となり、1928年に東京大宮電気鉄道が設立されている。
東京大宮電気鉄道は、大宮駅西口を起点として与野本町・浦和・蕨・板橋を通って大塚を終着駅に計画された。総延長は約26.5kmで全区間が複線、所要時間は30分以内という路線だった。しかし、東京大宮電気鉄道は地価高騰と恐慌の2つの要因によって計画が消滅している。

■大宮を自立した経済都市へ

製茶・製糸といった農工業で地場産業を築き、交通アクセスのよさから東京近郊の衛星都市としても順調に発展。戦後になってから、そうした成長モデルからの脱却を模索する動きも出てくる。大宮を自立した経済都市へ発展させようという思いが、地元から出てきたのだ。
1955年の統計では大宮駅の乗車人員は約1362万7000人、降車人員は約1362万4000人。1967年には乗車人員が約3732万3000人、降車人員が4036万4000人と右肩上がりを記録した。

高度経済成長期に大宮駅の利用者が急増したのは、大宮が東京の衛星都市色を一段と濃くしたことが理由だ。当然ながら、大宮駅発着の列車本数も増加した。

列車の運行本数が増えたことで、新たな問題も出てきた。それまでの大宮駅には自由通路がなく、駅の東側と西側は線路で分断されていた。東西を行き来するには、地域住民から大踏切と呼ばれていた駅に隣接する踏切を渡らなければならなかった。それまでの大宮駅だったら、踏切を渡ることは何の造作もなかった。
しかし、列車の運転本数が増えたことで大踏切は「開かずの踏切」と化した。街の発展にブレーキをかける踏切の存在は、議会でも問題視される。早急に対策が進められ、1959年には跨線橋が完成。大踏切問題は解消した。

大宮駅では、次なる問題もくすぶっていた。東京までの所要時間が短いことや東京への通勤者が増えたことから、市民が東京へ買い物に出掛けるようになった。大宮の消費が東京に流出する事態が顕著になってきたのだ。

大宮市民が東京での消費を拡大させれば、当然ながら大宮駅界隈の商店は売り上げを落とす。駅界隈の商店が売り上げを落とせば、街のにぎわいは喪失する。それが、大宮の衰退につながる。

首都・東京を相手にするという大きな課題を前に、地元財界は対抗策として大宮駅をステーションビルとして整備し、駅を一大ショッピングセンターにする構想を策定した。大宮駅は1934年に建設されており、老朽化が進んでいたことも大宮ステーションビル計画を後押しする要因だった。それでも、国鉄は東北本線や京浜東北線の工事で資金を使い、財政的な余裕がないことを理由に二の足を踏んだ。
国鉄の事情を斟酌した大宮市や財界は、民間が資金を出し合って駅舎を増改築する民衆駅方式を提案。国鉄の合意も取り付け、1967年に大宮駅ビルは開業した。新しくなった大宮駅は、東京への購買力流出を防ぎ、高度経済成長期以降の大宮経済を支える中心的存在となる。

■東北新幹線・上越新幹線の開業が大宮拠点化に拍車

そして、1982年の東北新幹線・上越新幹線の開業が、大宮拠点化に拍車をかけた。現在、東京駅を発着している東北・上越新幹線は、沿線自治体の反対などで建設が遅れ、大宮―盛岡間の暫定開業でスタートした。東北・上越新幹線にとっては不運ではあったが、これが大宮駅の存在感を内外に示すことにもつながった。
東北・上越新幹線が東京駅まで延伸した後も、通勤新線として埼京線や埼玉新都市交通が開業。鉄道が、大宮を盤石にした。その後も大宮の都市化は進展。大宮駅前にもオフィスビルが増加した。

かつて、大宮を支えた製糸場は都市化で姿を消し、工業都市から商業都市への転換も図られた。大宮駅前に広大な工場を構えていた片倉製糸は、1971年に操業を停止。工場跡地は、1983年に大宮カタクラパークに転換。そして、2004年には再開発で大型複合商業施設の大宮コクーンシティとして生まれ変わった。ちなみに、コクーン(COCOON)は英語で繭を意味し、大宮が製糸業で発展をしたことを今に伝える。

また、時代の流れも大宮の拠点性強化に一役買った。バブル期、東京の地価は高騰。また、東京一極集中の弊害も取りざたされるようになり、首都機能の分散が検討された。このとき、首都機能移転の議論はあまり進まなかったが、東日本大震災を契機として首都機能のバックアップ問題が盛んに議論されるようになる。

大阪は災害時の首都機能確保をうたった副首都構想を掲げる。一方、東京都は近隣県や横浜市・川崎市・相模原市・千葉市・さいたま市などの政令指定都市と連携した9都県市で首都機能を代替することを模索している。東京都のいう9都県市の中でも、さいたま新都心は重要な位置づけにある。さいたま新都心には、多くの中央官庁が出先機関を設置。また、大型公共施設も次々と建設されている。さいたま新都心の形成は、大宮駅があったからこそ実現したと言っても過言ではない。
2000年に東北本線・京浜東北線のさいたま新都心駅が開設された。首都機能拠点の最寄り駅の座は譲ったものの、大宮駅の存在感が小さくなることはない。それは、新幹線ダイヤからも読み取れる。2015年のダイヤ改正では、すべての新幹線が大宮駅に停車することになった。これで、北関東や東北・北陸から大宮へのアクセスは格段に向上した。

こうして、自他ともに大宮駅は首都圏の北の玄関口の地位を固めたのである。