江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜(1837~1913年)の筆と見られる「誠」と記した書が、「広辞苑」の編者として知られる国語学者、新村出(しんむらいずる)(1876~1967年)の京都市北区の旧宅で見つかった。慶喜の側近だった新村の養父が残したとみられ、出の親族が客間の押し入れの整理で発見した。縦103センチ、横90センチの黄みがかった絹地に楷書体で「誠」と大書され、三つの落款がある。
先月に調べた千葉県の松戸市戸定(とじょう)歴史館の齊藤洋一館長によると、これまで慶喜の「誠」は、将軍に任命された翌1867(慶応3)年3月、一橋徳川家7代当主・慶寿(よしひさ)の正室だった徳信院の求めに応じ、大坂城で揮毫(きごう)した1点のみが知られていた。茨城県立歴史館によると、書体は少し崩した行書で、縦104センチ、横155センチの絹本に1字という「破格の大きさ」(永井博・史料学芸部長)は共通する。
揮毫時期は不明だが、三つの落款は慶喜が静岡市で隠居生活を送っていた1878(明治11)年に沼津兵学校付属小学校の後身校に贈った扁額(へんがく)の三つの印影と一致する。
落款の一つは「温故而知新」で、齊藤館長は「明治になって書いたとすると、誠心誠意事(こと)に当たる信念は変わらないとの思いを表したのではないか」と推し量る。軸装の時期も不明だが「表具を見る限りは人に披露するためではなく、私的なものだろう」とも語る。
慶喜は大政奉還後の鳥羽伏見の戦いで「朝敵」となり、一時は謹慎。出の養父の新村猛雄は徳川宗家の慶喜付きとなり、生涯仕えた。慶喜の側室だった信(のぶ)の養父でもあり、出も慶喜一家と交流していた。
出邸には慶喜の書画が他に2点ある。孫の恭(やすし)さん=新村出記念財団嘱託=は「(誠の書は)かなり大きく、『桜より梅』という出の好みから、掛けることを望まなかったのかもしれない」と、しまい込まれた理由を推測する。公開の予定は当面ないという。