船橋市  ロヒンギャ問題②

船橋市       ロヒンギャ問題

ロヒンギャ民族の大移動

のちにロヒンギャと称する人々のベンガル地方からの移動の波は、大きく分けて4回あり、15世紀が最初の波だと考えられています。当時、ラカイン地方に存在していたアラカン王国(1430-1784年)の王は仏教徒でしたが、イスラム教にも寛容でした。王はイスラム商人との関係が深かったために、王自身がイスラム名まで有していたそうです。当時は仏教徒とイスラム教徒の対立は生じておらず、ベンガル出身のムスリムがしだいに定着するようになり、中には王宮内で役職に就くものも現れました。

第二の波は1826年にイギリスがミャンマー(当時はビルマ、1989年にミャンマーと改称。混乱を招くため、以降はミャンマーという名称で統一する)を植民地として組みこんだ時から発生しました。

ミャンマーは3度にわたる戦いに敗れ、イギリス領インド帝国の一部となりました。そのため、インドからの兵士や商人、農民といった様々な職業の人々(ヒンドゥー教徒、イスラム教徒を問わず)が流入することとなりました。ミャンマーの旧首都であるラングーン周辺では、インドから流入した人々が人口の半数以上を占めるようになっていました。

ラカイン州に流入したインド系の人々はおもに農民として定着したために、これまで争うことなく共存してきた仏教徒との間で、摩擦が生じるようになっていきました。また、他の地域でもインド系の金融業者が、利息の支払えないビルマ人の貧農たちの土地を買い占め、不在地主となっていくという事態も起きていました。

両者の関係が戦闘までに発展したのは、第二次世界大戦中のことでした。日本が大戦中にミャンマーを占領し、日本軍はミャンマーの人々、なかでもビルマ族の仏教徒を支援して、彼らがイギリスに独立闘争を行なえるようにしました。これに対してイギリスはインドからイスラム教徒が主体となった軍を投入しました。イギリスと日本の戦いが、実際には仏教徒VSイスラム教徒という宗教戦争になってしまったのです。現在でもミャンマーの仏教徒の間では、イスラム教徒に対する不信感がぬぐい切れていないといわれているはそのためです。

その後、第三の波が第二次世界大戦後にやってきます。大戦後、インドが1947年に、ミャンマーは1948年にイギリスからの独立を果たしました。インドが独立した際に、イスラム教徒たちがインドから分離して、東パキスタン(現在のバングラデシュ)と西パキスタン(現在のパキスタン)が成立しました。独立前後の東パキスタンは食糧不足に悩まされており、困窮した人々がミャンマーのラカイン州に流入したのでした。ラカイン州など首都から遠い地域は、1950年初頭頃まで中央政府の権力が及んでいなかったために、流入がしやすいという状況があったのでした。

第四の波はインドとパキスタンとの戦争(バングラデュ独立戦争:1971年)の混乱を背景に発生しました。このように長期間にわたる流入を繰り返し、ラカイン州にはロヒンギャと名のる人々が生まれ、増加していったのでした。

建国当初、ロヒンギャの人々にも参政権や移動の自由が認められていました。ところが、1962年に軍が政権を掌握して、ビルマ族を中心とした「ビルマ社会主義」を目指して中央集権化を推進していくにつれ、他の少数民族と同様に、ロヒンギャへの対応も悪化していったのでした。

たとえば、1978年には国軍によって「不法入国者(=ロヒンギャ)」の追放を目的とする軍事作戦が実行されました。モスクは破壊され、ロヒンギャの人々は殺害されたのです。結果として、20万から30万人ともいわれるロヒンギャが隣国のバングラデシュに逃れました。バングラデシュとの協議の結果、3年かけて約20万人のロヒンギャの人々が帰国しました。その後も、ロヒンギャへの弾圧や迫害が止まることはありませんでした。

つづく