習志野市   歴史⑨

習志野市    歴史

       日露戦争

 

「百年前の戦争1 日露戦争の碑(いしぶみ)」

 

今から100年前、ロシアとの戦争(日露戦争1904年~5年)のため、多くの兵士が大陸の戦場へとむかいました。習志野市域からも多くの兵士が出征し、中には命を落とした者もいました。
旧津田沼町の資料などにより、およそ180名ほどの兵士が、現在の習志野市域から日露戦争に出征していたことが確認されていますが、すべての兵士が明らかになっているわけではありません。その手がかりとなるものに、市内に残された日露戦争を記念した石碑(忠魂碑<ちゅうこんひ>など)があります。
菊田公民館の前には「日露戦役(せんえき)記念碑」があります。その背面には津田沼地区から出征した45名の兵士の氏名が刻(きざ)まれています。ここに書かれた兵士の所属部隊を調べると、大久保の騎兵連隊や佐倉の第2連隊(後水戸に移転)に入隊し、旅順(りょじゅん)・奉天(ほうてん)の激戦地を転戦した者が多いことが分かります。このほか藤崎堀込貝塚の近くや、谷津の丹生神社・実籾の無量寺の境内(けいだい)にも石碑が残されています。

これらの石碑の多くは、戦後地区ごとに建設されたものですが、戦死した兵士個人の慰霊碑も市内にはいくつかあります。「三代川 富五郎(みよかわとみごろう)君碑」(写真)は国道14号線沿いに建っています。明治政府は、夥(おびただ)しい数の慰霊碑が林立する光景が国民の戦意を挫(くじ)くことを懼(おそ)れたため、個人の慰霊碑を墓地に建てることを制限しました。この石碑が民家の敷地内に建てられているのも、このためかもしれません。碑面には明治12年生まれの富五郎氏が明治38年(1905年)4月、26歳で戦死するまでの戦歴やその人柄が刻まれています。温厚で親孝行な富五郎氏は、騎兵第14連隊に属し、奉天近郊の戦闘で勇敢に戦い戦死しました。
碑文の最後には「出征中に一女(いちじょ)が生まれる」という文字があり、富五郎氏の出征中に娘が生まれたことが記されています。愛娘(まなむすめ)の顔を見ぬまま戦死した三代川 富五郎氏と遺族の悲しみが、その碑面からうかがえます。