市川市    保育のNPO立ち上げた異才

市川市

オウム事件で「偏差値至上主義」にNO! 高校飛び出し、保育のNPO立ち上げた異才

保育事業を展開するNPO法人フローレンスの駒崎弘樹代表理事(39)が語る母校、私立市川中学高校(千葉県市川市)時代の思い出。前半では、現在の活動に影響を与えたという高校時代の小論文ゼミの話をしたが、後半では、もう一つの大きな転機となった海外留学について語った。

■受験至上主義に疑問を抱いた。
高校に入ると、クラスメートが「大学はどこに行くの」とか「予備校はどこにするの」とか、大学受験の話をよくしていました。特に私のクラスは特進クラスでしたので、受験を気にする生徒が多かったように思います。しかし、私は正直、そうした話題に辟易(へきえき)していました。大学受験の話なんかよりも、将来の夢とか社会問題とか、そういったことをもっと語り合いたかったのです。

中学卒業の間際に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件も、私の考えに影響を与えました。この事件の犯人はみな東大出などのエリートばかり。がんばって勉強して東大に入って何の意味があるのだろう。事件後、そんなことをよく考えていたので、偏差値の高い大学に入るために必死になっているクラスメートたちに違和感を抱いていたのです。

それでちょっと落ち込んでいた私は、再び姉に学校での不満を漏らしたら、姉は、だったら敷かれたレールから一度外れてみたらと、海外留学を私に勧めたのです。

そうかと思い、さっそく、自分で文部省(現文部科学省)に電話したり、奨学金支給団体を探したりして、留学の準備にとりかかりました。親は、危ないからと言って、最初は猛反対しました。でも、必死に説得したら、最後は折れて、留学費用も出してくれました。

休学などの手続きが必要になるため、もちろん学校側にも留学することを伝えましたが、案の定、ある先生から、そんなことをしたら大学受験に響くよみたいなことを言われました。その一言が、留学へのモチベーションをますます高めました。

■留学して人生が変わった。
結局、高校2年の途中から1年間、米ワシントン州の片田舎にある高校に留学しました。米国の高校の授業は、本を読んだり議論したりするのが中心で、英語には苦労しましたが、とても楽しく、充実感がありました。

米社会のよいところは、何かに挑戦する人に常に拍手を送る姿勢です。新しいことや変わったことをやろうとすると、みんなそれを応援してくれ、仮に失敗しても、ナイス・トライと言って、けっして責めたりけなしたりしない。出る杭(くい)は打たれる日本社会とは対照的です。こういう、個を伸ばすことのできる米国って素晴らしい社会だなと感心しました。

この時学んだ、周りを気にせず挑戦することの大切さは、のちの大学時代のベンチャー経営やフローレンスの設立につながったのではないかと思います。

留学は同時に、治安のよさなど日本の優れた点もたくさん気付かせてくれました。また、学校でも住んでいた街でも日本人は私しかおらず、常に日本人の代表として見られていたため、日本人としてのアイデンティティーも自然と強まりました。留学は私の人生を変えた大きなきっかけだったと思います。
■市川高校を卒業し、慶応義塾大学総合政策学部に進んだ。
帰国後は、高校2年生を途中からやり直しました。留学する前は、留学後に年下の人たちと一緒に机を並べることになるのは正直、少し抵抗がありましたが、実際そうなってみると全然気になりませんでした。これも、年齢による上下関係の意識のない米国で1年間過ごした影響だと思いました。今でもつきあいがあるのは、帰国後に同じクラスになった人たちがほとんどです。

勉強に関して言えば、やはり、英語が見違えるように上達しました。留学前は、留学したら受験に響くとまで言われましたが、まったくそんなことはなかった、自分の考えや判断は正しかったと改めて思いました。

ただ、勉強は相変わらず好きではなかったので、大学は英語だけで行けるところに行こうと考えました。また、留学の影響で、将来は海外とかかわる仕事をしたいと考えるようになり、そのためには、大学も国際色が豊かで国際問題を学べるところに行ったほうがいいだろうと思いました。それで、英語と小論文だけで受験できる慶応義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)の総合政策学部を受けることにしたのです。

実際の受験では、親から、お金がないので私立には行かせないと言われていたため、一応国立大学も受験し、そのために塾にも通いました。しかし、結局、国立大学は落ちて、SFCに行くことになりました。

正直、SFCにはそれほど高い期待はしていませんでしたが、入って大正解でした。敷かれたレールの上を歩くだけでは満足できない自分と似たような学生が多く、刺激的でした。授業も非常に幅広い分野から自分の履修したい授業を選択できるので、視野がとても広がりました。私自身の興味範囲も徐々に変わって行き、結局、在学中にITベンチャーを経営し、ビジネスの世界に入りました。

■卒業して1年後にフローレンスを立ち上げた。
ベンチャーの経営は非常に順調でしたが、お金をもうけることに対して徐々に違和感も抱き始めました。自分が本当にやりたいことは何だろうか。自問自答を繰り返すうち、事業を通じて社会問題を解決する社会起業家という存在を知りました。これだと思い、いろいろなリサーチや準備を経て、2004年、病児保育問題を解決するためのNPOを設立しました。

私たちが掲げる「指示命令をしない保育」「自分で考えさせる保育」とは、例えば、食事の時間の時に、「食べなさい」と指示命令するのではなく、まず「どうしたいの」と聞き、子どもが自分から「食べたい」と言ったら食べさせる、「食べたくない」と言ったら、子どもの意思を尊重し、「じゃあどうしようか」と子どもがしたいことを聞き出す。こういうことを繰り返すことによって、子どもは自分で考えるようになり、小さいころから自分の意見をはっきり述べたり、議論したりすることができるようになります。

今、大学を含めて日本の教育全体が、従来の詰め込み型から、自分で考え自分で意思決定していくアクティブラーニング型に変わりつつありますが、保育も同じように変わっていかなければいけないと考えています。そうやって、みんなで日本の未来をつくっていく。それが私たちの目指すゴールです。

考えてみれば、私自身も、市川中学高校時代に、指示命令、管理されることの窮屈さや、逆に自分で考え、行動する楽しさ、大切さをさんざん経験してきました。そうした貴重な経験が今の活動につながっているのだと思います。