市川市 あの「足立区」が妙に盛り上がっている理由
2015年以来4年連続で不動産・住宅サイトSUUMOの「穴場だと思う街ランキング」で2位の赤羽に大差をつけてトップを独走する北千住をはじめ、このところ、足立区が熱い。
大学増で町が若返った、飲み屋街がにぎわっている、歴史ある町並みや銭湯に観光客が集まっている、西新井のホステルに毎月5000人(うち9割が海外から)が宿泊、足立区創業の飲食店が他地域に進出して成功――と、活気を感じさせる話題が多いのだ。
2017年にはNHKで東京・足立区発ドラマ「千住クレイジーボーイズ」の放映もあった。個人的に関心のある町づくり、介護、子育て、古民家リノベーションなどの分野でもさまざまな活動を耳にする。何が起こっているのだろうか。
■東京電機大学移転は大逆転の結果だった
明らかに町が変わったと、多くの人が認識したのは2012年の東京電機大学の移転だった。
1993年の放送大学第3学習センターが綾瀬に開設(2000年に千住に移転)されて以来、2006年に東京藝術大学千住キャンパス、2007年に東京未来大学、2010年に帝京科学大学と平成に入ってから着々と大学が増えてきた足立区だが、6000人を超すマンモス大学の影響は大きい。おじさん向けの居酒屋が軒を連ねていた飲食店街に若い人向けの店が増え、昭和の時代にはありえなかった文教都市足立という評価すら生まれ始めたのである。
だが、足立区が2008年6月24日に東京電機大学移転を公表するわずか3カ月前、JTの社宅跡地だったこの土地に建つ予定だったのはホテルだ。地元からの強い要望もあり、同年3月31日には各方面への根回しその他を完了、最終的に計画についての国土交通大臣承認取得まで終わっていたのだ。
それをひっくり返したのは、前年6月に就任した現区長である近藤やよい氏。現場では絶対無理という声まであったようだが、5月7日に区から土地所有者のJT、URに大学を紹介、6月20日には両者に誘致協力を依頼、その4日後には大学とJTが土地売買契約を締結し、公表。お役所の仕事とは思えないスピードで話をまとめ切ったのである。
2002年に工業等制限法が廃止され、23区内に大学や工場の進出が可能になって以来足立区は廃校になった小中学校跡地に大学を誘致し続けてきており、それ自体は近藤区長のアイデアではない。だが、電大の移転が最終的な評価につながったと考えると非常に強力なダメ押しであったことがわかる。
さらに2021年には文教大学の経営学部、国際学部が花畑地区へ移転。荒川区にある東京女子医大東医療センターも日暮里・舎人ライナー江北駅近くに移る計画だ。同医療センターは外来患者1日平均1000人余、病床数が500床弱、職員数1100人余の地域医療の中核となる大病院で、転出される荒川区には大打撃。だが、老朽化施設の建て替えに条件の良い案を出した足立区が選ばれた。異論もあろうが、区長、やり手なのである。
■住民の半数以上が足立区に誇りを持つように
それだけではない。就任以来の施策を見るといずれも独自性が高い。たとえば、2008年度から始まった「おいしい給食」事業は2011年に出版された書籍『東京・足立区の給食室~毎日食べたい12栄養素バランスごはん~』でも知られ、これまでに8万部近くが売れた。杉並区や文京区、福井県など追随した類書を出す団体も複数あるほどだ。
それ以外にも犯罪防止を目指す「ビューティフル・ウィンドウズ運動」、ハローワーク(! )からスタートした自殺防止のための「こころと法律の相談会」(現在は「雇用・生活・こころと法律の総合相談会」)、今では一般的になったシティプロモーション課を23区で初めて作るなど挙げ始めるときりがない。
特にシティプロモーションでは、区民向けの情報発信力の向上に注力。その結果、たとえば180人定員の図書館のイベントが募集開始から1時間で満員になるほどに。区が伝えたいことが伝わるようになり、2010年時点の調査で30%を切っていた区を誇りに思う人の割合は2016年には51.4%に増えた。
自分の町をよしと思う人が増えれば、町の情報はその人たちから発信されていく。外向けのプロモーションに費用をかけていないのに、足立区の情報発信が増えているのはそういう理由もあるのだろう。
また、2018年6月18日の大阪府北部地震の際には、即日全区立小中学校のブロック塀の図面調査を、翌19日には建築職の技術系職員が全校実地調査を行い、21日には安全性が確認できなかった2校(うち1校は廃校)のブロック塀部分の撤去を完了している。
東京新聞によると台東区は6月28日に調査結果を公表、港区は6月29日から撤去作業に、練馬区は7月1日に調査結果を公表しており、23区内で足立区のスピードは驚くほど。こうした舵取りが足立区を変えてきたことは間違いない。だが、それだけではない。
そもそも、東京23区では新宿区に次ぐ2人目の、しかも辣腕女性区長が足立区で誕生したのには本人の実力以外の背景が考えられる。ひとつは近藤区長の父が議長も務めた地元選出都議会議員であり、知名度が高かったこと。そしてもうひとつは足立区、特に千住界隈は江戸時代から女性が活躍してきた地であったという歴史だ。
■江戸時代の人口は新宿区の3倍以上
書籍『足立区のコト。』(彩流社)によると江戸時代の千住は品川、内藤新宿、板橋と並ぶ、五街道最初の宿場町、四宿のひとつ。今の感覚からすると意外かもしれないが、当時の千住は新宿の3倍以上の人口があり、市場もある商業の町。千住を中心に足立区内に豪壮な家屋や蔵が残されているのは当時の足立区には商家の旦那衆が数多く存在していたからである。
武家、農家に比べると江戸時代でも商家では女性(奉公人以外)も家庭内で、仕事上でそれなりの力を持っていた。足立区の女性の歴史をまとめた『葦笛のうた』(ドメス出版)には明治期、女性の小学校への就学率が低い中、千住エリアでは男女がほぼ同率だったこと、千住町の教育会が1924年に最初に作った中等教育機関が高等女学校(現在の潤徳女子高)だったことが記されており、そこからこの地での女性の位置付けがわかる。
働く女性の割合も高く、1920年の「東京市近郊町村勢統計原表」でみると東京市平均が約13%であるのに対し16.6%。1925年時点で全国の市町村立小学校の女性教員が28%だったのに対し、足立区(当時は南足立郡)では40%である。
モノが流通、集積する地であったことから人の出入りが激しく、多様性を受け入れる素地もあったのだろう。女性が働きやすい土地柄だったのである。
ちなみにそれだけ裕福だった足立区が貧困問題を抱えるようになったのは、昭和30年代以降に多くの都営住宅を受け入れた結果といわれる。区部に約16万7000戸ある都営住宅の約3万1000戸、2割近くが区内にあり、そこで課される所得制限が要因ではないかというのである。
■足立区生まれは、なんだかんだ地元好き
地域にかかわる女性も多い地域である。昭和末期に全国で「女性団体連合会」と呼ばれる地域活動を行う女性が連携する組織が作られたが、足立区は1986年設立で最古。その先進性は最近の活動にも発揮されており、2018年には全国でも珍しい社会福祉法人、医療法人以外の民間が運営する福祉複合施設「Ohanaダイニング」が誕生している。
これは1階に認可保育園、2階に学童保育室、視覚障害者のデイケア、子育てサロンと地域に開かれたカフェからなるもので、各運営者は全員女性だ。子育てサロンを経営する三浦りさ氏は10年ほど活動を続けており、NPOにしてからでも7年目。だが、一緒に施設を運営する人たちは彼女よりベテランぞろいだ。
保育園を運営する鈴木圭子氏は50代で主婦から保育園経営者になり、70歳を超えてから新しい保育園を手掛けた。それ以外にも10年以上活動している女性も多く、地域活動に加えて民生委員、保護司などをやっている人もいるとか。そこに町の多様なプレーヤーから意見を聴こうとする姿勢や実行力のある近藤区長が加わり、活動が加速しているのである。
もうひとつ、下町のお節介さも活動を活発にしていると三浦氏は話す。「足立区生まれは出て行きたいと言いながら、地元が好き。地域には課題も多いので、自分が頑張らなきゃと思ってしまうのです」。下町のお節介、面倒見の良さも活発な活動の背景にあるのだ。