市川市 日比谷駅と錦糸町駅 実はライバル関係にある成り立ち
日比谷駅と錦糸町駅がライバル関係にある、と聞くと、意外に思われることが多いだろう。しかし、界隈が発展するきっかけはライバルと呼ばれるにふさわしい歴史をもっていた。『ライバル駅格差』(イースト新書Q)著者の小川裕夫氏が、日比谷駅と錦糸町駅がなぜ、ライバルと呼ぶのにふさわしいかについてレポートする。
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皇居に近接する千代田区霞が関は、日本の中枢でもある中央官庁が集積している。霞が関に官庁が集中するようになったのは戦後からで、それまで庁舎は大手町・霞が関などに分散配置されていた。
明治以降、銀座は発展をつづけた。一方、線路の反対に広がる日比谷一帯はほとんど都市化していなかった。日比谷公園は1902年にオープンするが、それまでは練兵場。いわば、軍用地。広い荒野でしかない。
明治政府が内閣制に移行した1885年、初代総理大臣に伊藤博文が就任。重要ポストの外務大臣には盟友の井上馨が就いた。
井上は内閣府直属の臨時建築局総裁も兼任。臨時建築局とは聞き慣れない官庁名だが、これは官庁街づくりを使命とする部署だった。井上は日比谷一帯に官庁を集積させることを構想していたのだ。
明治政府の首脳の中でも、井上は都市計画を語らせたら右に出る者はいないほどの人物。井上が思い描いた構想は、日比谷一帯に西洋風の官庁街を建設するというものだった。官庁集中計画の途中で、井上は不平等条約の改正に失敗。その責任を取る形で外務大臣を辞任した。そのため、臨時建築局は自然消滅する。
わずかな期間しか存在しなかった臨時建築局が日比谷に残した爪痕は、赤レンガの法務省庁舎ぐらいしか残っていない。
井上失脚後、練兵場が移転。同地に日本初の洋風公園となる日比谷公園がオープンした。都市化が著しく進んだ現在においても、東京都心部とは思えないほど日比谷公園は豊かな自然をたたえる。日比谷公園内は官庁街・霞が関と接し、反対側には2018年にオープンしたばかりの東京ミッドタウン日比谷が控える。
繁華街としても注目される日比谷だが、周辺には昔から帝国劇場や東京宝塚劇場などが立地する。日比谷の発展史は、これら劇場を抜きに語ることはできない。
日比谷が劇場街として歩み始めるのは、1911年に帝国劇場が設立されてからだ。しかし、それまでには長い紆余曲折があった。
帝国劇場が姿もなかった1883年。日比谷に鹿鳴館が落成する。諸外国との文化交流の場になっていた。この鹿鳴館も井上が構想したものだった。
鹿鳴館は欧化主義との強い批判を受けながら、貴重な外交の場になっていた。政府は鹿鳴館で日夜ダンスパーティーをつづけたのも、「西洋に追いつけ、追い越せ」という意識があったからだ。
井上失脚後は世論の批判をかわすことができなくなり、鹿鳴館はその役割に幕を下ろす。鹿鳴館が潰えた後、井上は実業家の渋沢栄一や大倉喜八郎にその夢を託した。
渋沢と大倉は井上の夢を引き継ぎ、1890年に帝国ホテルを開業させた。帝国ホテルの開業は井上個人が描いた夢だが、当時の政府にとって諸外国からの賓客を”おもてなし”する必要があり、政財界が待望していた施設でもあった。
また、訪日外国人のおもてなしの場であるハード面の整備のみならず、ソフト面での充実も図った。1893年には東京府知事も歴任した元徳島藩主・蜂須賀茂韶を会長とする貴賓会が発足。
貴賓会は外国人観光客の誘致を目的とし、宿泊所の斡旋や鉄道の案内などを主業務にしていた団体で、JTBの前身にあたる。
訪日外国人の窓口になっていた日比谷に、さらなる歓待施設として帝国劇場が開場。ここから日比谷は劇場街として歩み始めることになるが、劇場街は外国からの賓客をもてなすという国策をソフト・ハード両面で具現化したものでもあった。
帝国劇場ではオペラや歌舞伎などが上演され、外国人観光客にとどまらず東京市民の間でも話題になった。三越百貨店の広告文句でも”今日は帝劇、明日は三越”と謳われた帝国劇場は、上京の折に見物する名所にもなり、名声を高めていく。
昭和に差し掛かる頃、「日比谷に帝国劇場あり」といった意識が定着。そうした時期に、阪急の総帥・小林一三がタカラヅカの東京進出を考えるようになる。
山梨出身の小林は上京して福澤諭吉の門を叩いた。慶應塾生になった小林は勉学に打ち込む一方で、浅草や芝の劇場にも足しげく通った。
こうした芝居好きの血が後年にタカラヅカを生むことになるわけだが、当初のタカラヅカはあくまでも阪急電車に乗ってもらうための仕掛けに過ぎなかった。しかし、次第にタカラヅカは大きく成長。全国公演を実施した。
帝国劇場での初公演は、タカラヅカ結成から4年後に訪れた。タカラヅカは初公演を成功させた後、毎年3~4回は歌舞伎座や新橋演舞場を借りて東京でも公演するようになっていた。
タカラヅカが頻繁に東京公演をこなした背景には、小林の活動拠点が関西から東京へとシフトしつつあったことも理由のひとつにある。
小さな鉄道会社を関西の大企業に育てた実績を見込まれた小林は、東京財界から経営手腕を見込まれるようになった。小林に舞い込む依頼の多くは、業績が低迷する企業の再建だった。
東京電力の前身・東京電燈の再建も任されることになるが、その際に小林は東京電燈が日比谷に所有していた土地を買い取り、そこに東京宝塚劇場・日比谷映画劇場・有楽座を開場させている。その後、帝国劇場は経営危機に陥るが、その際も救済のために阪急傘下に収めた。
こうして、日比谷は阪急の力によって日本でも屈指の劇場街へと変貌。小林は日比谷一帯をアメリカ・ニューヨークの劇場街「ブロードウェイ」になぞらえて、日比谷を”アミューズメント・センター”と称した。
劇場街と化した日比谷は、今でもそれを継承。公演後にスターを出待ちする光景は、日比谷では日常風景に溶け込んでいる。
丸の内・大手町で働くビジネスマンの娯楽の聖地を目指した日比谷に対して、小林は庶民の娯楽の街をつくることにも取り組んだ。小林が庶民の街として、着目したのが錦糸町だった。
日比谷で一定の成功を収めた小林は、錦糸町駅に隣接した広大な工場跡地を買収。1937年、ここに江東楽天地をオープンさせた。
オフィス勤めのビジネスマンを対象にした日比谷がホワイトカラーの街だとすれば、錦糸町駅一帯は工場などで働くブルーカラーの街。当時、会社に勤務するホワイトカラーは少数派。ブルーカラーが圧倒的な多数だった。そうしたことから、錦糸町駅では大衆娯楽を提供することを目指した。
錦糸町駅は下町地域のために町工場などが多く立地し、また近隣の千葉県市川市にも工場が多かった。そうした土地柄を考慮し、江東楽天地は劇場・映画館のほか吉本興業のためのホール、飲食店、遊園地といった、現代でいうところのショッピングモールのような一大複合商業施設と娯楽の殿堂を融合させた施設を揃えた。
戦後も錦糸町駅一帯は阪急・東宝資本によって発展。半ば伝説となっているキャバレー「グランド・フォンテン」も、1960年にオープンした。錦糸町駅前にある場外馬券売場「ウインズ錦糸町」は、1950年に江東楽天地が誘致を打診したことにより開設された。
そして、1972年に錦糸町駅はターニングポイントを迎える。それまで総武線のターミナル駅として不動の地位を築いていたのは両国駅だった。
総武線は利用者が急増しており、そのために複々線化工事に着手。複々線化に伴い、快速電車の運行が始まる。しかし、総武線快速電車は東京駅発着とされた。そのため、錦糸町駅から地下へと潜るので両国駅には停車しない。
この総武線快速電車の両国駅通過という事態が両国駅の衰退を招き、逆に錦糸町駅が東京の東の拠点というポジションを獲得することになる。両国駅から錦糸町駅の政権交代が起こった。
さらに、錦糸町駅一帯の繁華街化を後押ししたのが、東京都知事の鈴木俊一による副都心計画だった。
東京に7つの副都心をつくるという同計画では、新宿・渋谷・池袋と並び上野・浅草、錦糸町・亀戸が副都心に指定された。
錦糸町・亀戸というふたつの駅にまたがっているが、実質的に錦糸町駅がその中心であることは、街の状況などを考えれば明らかだった。
2003年、営団地下鉄が錦糸町駅まで半蔵門線を延伸。渋谷駅と直結したことで錦糸町駅界隈の活性化も加速した。錦糸町駅は、その後も順調に利用者を増やした。
2012年には、東京スカイツリーが開業。錦糸町駅は東京スカイツリーの最寄駅ではないが、近距離にあるため、東京スカイツリー開業の恩恵を受けている。
また、秋葉原駅からも総武線一本でアクセスできることが考慮され、東京スカイツリーに立ち寄った訪日外国人観光客が秋葉原に足を運ぶ途中で錦糸町駅に寄ることもある。
劇場街として発展した日比谷に対して、大衆娯楽の街で発展した錦糸町。阪急が開発を主導したエンタメタウンだが、両者は独自の発展を見せている。
本日、市川市北方町自宅より依頼を受け、お伺い、車椅子にて
市川市国府台 国際医療福祉大学市川病院に通院治療を
され戻りました。