松戸市 戸定歴史館
松戸市松戸714の1
企画展 明治150年 「忘れられた維新 静かな明治」
徳川昭武が1867年のパリ万博に派遣された本当の目的は、幕府再生のための対外協力要請、特に借款に基づく資金調達にありました。協力関係を結んだフランスの政局が急変する中で借款契約は実効力を失い、徳川慶喜の目指した幕府再生の夢は潰えました。政権奉帰、幕府瓦解の局面を経て政権の座を追われた徳川家は、どのような明治時代を迎えたのでしょうか。徳川家にとっての明治維新と、権力の座を去って過ごした明治を見つめます。
会期
平成30年10月13日(土曜)から12月24日(月曜・休日)
展覧会構成
第1章:プリンスの覚悟-パリへの旅立ち
慶応2(1866)年11月、昭武は、幕府から思いがけない命を受けます。将軍家の一員である清水家を相続すること、翌年の万国博覧会に参加することでした。
将軍・慶喜は13歳の弟、昭武を将軍名代(代理)としてパリ万博に派遣しました。慶喜は幕府再生の切り札としてフランスから巨額の資金調達を行おうとしていました。それを確実なものとするため、昭武に、各国君主が集う最高の外交舞台である万博で幕府の威信を示し、ナポレオン三世との親交を結ぶことを期待したのです。重責を果たすため、昭武は、2か月も要する命がけの航海を経てパリに赴きました。当時の航海技術では遭難の危険は避けられません。将軍候補を外国へ派遣する前例のない決断でした。
少年昭武は、フランス皇帝、ロシア皇帝たちと華麗なる宮廷外交を行いました。しかし、フランスの外交政策の変更により資金調達は不調に終わります。追い討ちをかけるように幕府瓦解の知らせが昭武のもとに届きました。ヨーロッパのマスコミで次期将軍と華々しく報じられた昭武は幻の将軍となったのです。
第2章:もうひとつの維新-為政者としての昭武
慶応4年(1868)3月の時点で、慶喜以下、国内にいる主だった徳川家の人物は新政府に恭順を示していました。しかし、一人だけ、意思を確認できない人物がいました。パリにいる徳川昭武です。当時の通信手段では意思確認に4ヶ月近くを要したからです。新政府首脳の三条実美は岩倉具視への書翰で昭武がフランスにいることに対して「後患深く可畏候」つまり、後の患を深く畏れるべきだと書いています。抵抗を続ける旧幕府勢力が、昭武を旗頭に迎えることを恐れたのでしょう。まだ脆弱であった新政府にとって、徳川昭武は危険人物と見られていたのです。懸念材料を払拭するため、新政府は昭武に帰国命令を出しました。帰国後の罪は問わないという含意も込めて、水戸藩主の座を用意した上での命でした。
兄が謹慎処分を受け入れたことを確かめた上で、昭武は帰国を決意します。海外にいた徳川家の主要人物を巡るこの動きは忘れられた維新とも言えるでしょう。
元号が明治となったこの年の11月、昭武は帰国しました。明治4年まで、彼は水戸藩主、同藩知事として地域の為政者ではありましたが、この後は政治に係わることはなく、新しい道を歩むことになるのです。
第3章:見出した夢-文化財を創る
政治と係わらなくなった徳川昭武は、大名家ではなくなった水戸徳川家の家政運営を担い、明治年9年からは約5年のパリ再留学を行いました。維新の混乱により、充分な勉学が出来なかったという思いがあったのでしょう。
帰国翌年の明治15年、彼は牧場開発と松戸に彼の私邸・戸定邸建設を同時に進めます。建物建設途中の明治16年には家督を譲り隠居、翌年6月には戸定邸に移住しました。建物完成後は3期に及ぶ作庭を陣頭指揮し、同23年に庭園を完成しました。ここを拠点とした狩猟、釣り、園芸、作陶、そして写真などの趣味は各分野の専門家との交わりを伴いながら深みを増していきました。
作庭には海外で見聞した知識と共に大名家に生まれ育った感性が反映され、写真には東洋西洋両方の絵画技法に基づいた構図と巧みな陰影表現が見られます。彼が好んでレンズを向けた働く庶民の姿は、作品として結実し、貴重な歴史資料ともなったのです。彼が心血を注いで完成させた戸定邸の建物と庭園は、国の重要文化財と名勝に指定されています。
明治になり、政治を生きた昭武は、独自の美意識で新しい文化を創り出したといえるでしょう。
エピローグ:維新、閉幕-兄弟の絆
明治維新の栄光の影で、かつて為政者だった兄弟は、政治とは一線を画すべく自らを律し、静かに暮らすことで徳川家を明治新国家へソフトランディングさせました。両者が趣味に没頭する姿は政治とは無縁であることの暗喩のようにも見えます。
明治31年3月、兄・慶喜は維新後初めて明治天皇に謁見し、実質的な名誉回復を遂げます。昭武は2度にわたり兄を戸定邸に招き、お祝いをします。将軍であった慶喜の心中を最も深く共有できた人物は弟・昭武だったのでしょう。当事者にしか知りえない景色が見えたでしょう。
明治43年7月、徳川昭武は兄に先立ち亡くなります。明治35年6月に公爵を授かっていた兄は、この年の12月に隠居をしました。2人の維新の区切りを感じたのでしょうか。