習志野市    貝塚

習志野市   貝塚

 

縄文時代の貝塚は、日本列島ではおよそ2500個所発見されており、その4分の1近くが東京湾の東沿岸一帯に残されている。中でも千葉県下に集中しており、とりわけ千葉市内は分布密度が高く世界最大の貝塚密集地帯になっている。このほか貝塚が集中して分布している地域としては、太平洋沿岸の大きな内湾であり干潟がよく発達した仙台湾や大阪湾などをあげることができる。
東京湾岸にも集中している貝塚であるが、作られ方は時期によって違う。縄文早期では、竪穴住居や小さな調理施設である炉穴の中に捨てられている場合が多く、縄文前期にも早期と同様の貝塚が形成されている。縄文中期になると、住居がムラのほぼ中程の広場を囲んで配置されていて、それらの住居に貝塚が残されたので、結果として環状の貝塚の並びが形成されたように見える。加曽利貝塚などがこれに類する。
日本列島は酸性土壌であり、骨などの有機物が残り難い。しかし、貝塚は大量の貝殻に由来する炭酸カルシウムが豊富なために土壌をアルカリ性に保ち、鳥獣や魚などの骨格(動物遺体)がよく保存されているので、当時の生産や海辺の生活を知る動物考古学の観点から貴重な遺跡となっている。
貝塚が太古の人々の遺したものであるという考えは奈良時代に既にあり、『常陸国風土記』には、大櫛という地にかつて巨人が住んでいて、貝を食べ散らかした跡が岡になったという話が見える。なおこの跡は、現在の大串貝塚に比定される。日本における本格的な貝塚研究の端緒は、1877年にアメリカの動物学者エドワード・S・モースが東京都大田区の大森貝塚を発見し発掘調査したものである。
最古とされている貝塚は、千葉県の西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚であり、紀元前7500年頃の縄文時代早期前半の土器が両貝塚から出土している。
日本人によって初めて本格的な発掘調査・報告が行なわれた貝塚は、茨城県稲敷郡美浦村の陸平貝塚である。1905年(明治38年)には、横浜に居留していたイギリス人医師ニール・ゴードン・マンロー[注 1]によって、縄文時代後期から弥生時代前期の貝塚である「三ツ沢貝塚」(横浜市神奈川区沢渡ほか)が発見される。
貝塚によっては、貝殻がきれいに整列されているところもある。久米島町の貝塚では、貝札などが同時に発見され、単なる「貝塚=ゴミ捨て場」説に一石を投じる発見がなされた。