習志野市   下総三山の七年祭り

習志野市   下総三山の七年祭り(千葉県指定無形民俗文化財)

「下総三山の七年祭り」は、現在の船橋市・習志野市・八千代市・千葉市に及ぶ9つの神社が寄り集まる寄合い祭りです。丑年と未年に行われ、数えで七年目に当たることから七年祭りと呼ばれています。
神輿が参加する神社(二宮神社への神輿の昇殿順)
神社
所在地
祭りでの役割
二宮神社
船橋市三山
父・夫
菊田神社
習志野市津田沼
伯父
八王子神社
船橋市古和釜
末息子
高津比〓神社 〔〓は口遍に羊〕
八千代市高津
姫君
時平神社
八千代市大和田・萱田町
長男
大宮大原神社
習志野市実籾
叔母
三代王神社
千葉市花見川区武石
産婆
子安神社
千葉市花見川区畑町
母・妻
子守神社
千葉市花見川区幕張
子守
株式会社TEM研究所編(2013)『七年祭り〔氏子版〕』七年祭り保存會を参照。
習志野市内の神社の神輿は、菊田神社と大宮大原神社が参加しますが、このほかに、藤崎の人々が田喜野井とともに二宮神社の神輿の担ぎ手として参加します。また、大祭たいさい前日の禊みそぎ式は鷺沼(現在は袖ケ浦)で行われ、一行は鷺沼の根ね神社で接待を受けます。磯出いそで祭後の神之台かんのだい神事は津田沼(久々田くぐた)で行われます。習志野市内の多くの人々が様々な形で関わっている祭りです。
七年祭りの起源については、次のような伝承があります。15世紀後半に馬加(現在の幕張)を本拠とした千葉氏の一族、馬加康胤まくわりやすたねの夫人が、臨月を過ぎても出産の気配がなく、二宮神社などの神職に祈祷させ、浜辺で祭事を行ったところ、無事に男子を出産し、以後、康胤は安産御礼の祭りを行うようになったといいます。
また、七年祭りに関わる伝承としては、藤原時平ときひらの子孫、藤原師経もろつねの伝説が知られています。都を追われて東国に来た師経が、海路暴風に遭い、久々田(現在の津田沼)に流れ着きました。見失った姉の船に合図の烽火を挙げたのが神之台で、その後師経は二宮神社を深く信仰したとも、二宮神社に祀られたともいいます。このほかにも様々な伝説があります。
祭りが現在のような形になったのがいつごろなのかはよくわかっていませんが、七年に一度行われるようになったのは、享保きょうほう12年(1727)ともいわれます。江戸時代後期を通じて形が整えられ、規模も大きくなっていったようです。
行事の概要
小祭(湯立祭)
小祭しょうさい(湯立祭ゆたてさい)は9月中旬頃に開催されます(平成27年は9月13日)。二宮神社の神輿が三山を巡幸します。三山の氏子は大祭の時は9社の神輿の世話役をして神輿を担げないので、この時に十分に担ぐともいわれています。
禊式
大祭の前夜、大祭参加者が身を清めます。埋立以前は鷺沼海岸で行われていました。現在は袖ケ浦運動公園で行われます。平成27年は10月31日でした。

安産御礼大祭
まず二宮神社で神事が行われ、その後、二宮神社の神輿は神揃場かみそろいばへ担ぎ出されます。大祭たいさいでは二宮神社の神輿は藤崎の担ぎ手(藤若)と田喜野井の担ぎ手(田若)が交代で担当します。一方、各神社からも神輿が出発し、三山七丁目の神揃場を目指します。
神揃場では神輿はオツカと呼ばれる定められた場所に置かれます。その後、まず二宮神社の神輿が出発し、二宮神社境内に入ります。続いて各神社の神輿が「七曲り」と呼ばれる旧道を通り、定められた順番で二宮神社境内に入ります。そして二宮神社以外の神輿が昇殿参拝します。昇殿後、磯出祭に参加しない神輿は、各神社に還御します。
平成27年は11月1日(日曜)でした。

 

本日、習志野市藤崎自宅より依頼を受け、お伺い、車椅子にて

習志野市谷津 津田沼中央総合病院に通院治療をされ戻りました。