習志野市 第一次世界大戦と習志野
現在、市庁舎1階ロビーの展示コーナーで関連資料を展示しています。
第一次世界大戦と習志野―大正8年の青きドナウ―について
今から100年ほど前、千葉県習志野の広大な原野に「美しく青きドナウ」の調べが流れていました。
大正4年(1915)9月から同9年(1920)1月にかけての4年4か月の間、最盛期には1,000名近いドイツ兵が習志野に収容されていました。このページでは、習志野俘虜収容所での彼らの生活をご紹介します。
▼図版・写真資料について
ここに掲載している図版・写真は、ヴァルター・イェーキッシュ氏(ドイツ連邦共和国ボーフム市)とペーター・パンツァー博士(ボン大学)の所蔵資料を含んでいます。掲載図版・写真の無断使用はご遠慮ください。
イェーキッシュ氏の所蔵資料には◇印、パンツァー博士の所蔵資料には◆印を付しました。イェーキッシュ氏とパンツァー博士のご協力に御礼申し上げます。
青島の戦いとドイツ兵捕虜の収容
大正3年(1914)、第一次世界大戦の戦雲はヨーロッパ中を巻き込んだばかりか、遠く東アジアまでを覆い尽くした。明治維新から半世紀にもならない日本は、日英同盟によりイギリス・フランス・ロシアなどの連合国側に立って参戦し、日本の近代化に大きな影響を与えていたドイツと戦うことになった。中国・山東省のドイツ租借地・青島ちんたおが、日独戦争の焦点となった。
同年11月、日本軍の猛攻の前に青島は陥落し、ワルデック総督以下約5,000名のドイツ将兵が捕虜となった。彼らは日本に送られ、久留米・福岡など12の捕虜収容所に収容された。習志野に彼らが収容されたのは、翌4年(1915)9月のことであった。東京・浅草本願寺に収容されていた将兵に加えて、福岡・久留米・静岡・大分の各収容所から習志野へ移送が行われたが、その中には、日本に向けて親善訪問の途中で開戦に巻き込まれてしまったオーストリア・ハンガリーの軍艦「カイゼリン・エリーザべト」の乗組員も含まれていた。
習志野俘虜収容所でのくらし
習志野俘虜収容所長 西郷寅太郎大佐 ◇
習志野俘虜収容所長は、西郷寅太郎さいごうとらたろう大佐であった。彼は西郷隆盛の嫡子であり、父が反逆者として敗死した後、明治天皇の思召しでドイツの士官学校に留学していた経験を持ち、ドイツに深い理解を持っていた。そればかりでなく、戦争の悲惨さや敗れた者のみじめさも、身をもってよく知っていたのである。
捕虜たちの日常生活
バラック(右)とラウベ(左)
何よりも無為に過ごすことをきらう勤勉なドイツ人らしく、習志野に収容された約1,000名の将兵は、日本側が用意したバラックの他に、広大な構内にラウベ(あずまや)と呼ばれる小屋を作った。さらに、演奏会や演劇を行う野外ステージ、バラックとバラックの間には菜園を作り、ビールまで醸造して多彩な生活を過ごしていた。印刷所ではフリッツ・ルンプが、日本情緒あふれる絵はがきまで作っていたのである。
単調な捕虜生活を彩ったのは、音楽をはじめとする文化活動とスポーツであった。習志野捕虜オーケストラは、所内でたびたび演奏会を開き、ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルトそれにヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」までが演奏されていた(右の演奏会プログラムの7曲目に「美しく青きドナウ」がある)。草深い習志野原に、望郷の思いを乗せてウィンナ・ワルツが流れていたのである。捕虜劇団はイプセンに挑戦し、捕虜仲間を講師にした「捕虜カレッジ」が開かれ、映画館もあった。また、日本の文化に深い理解を持つルンプは、日本の民話の翻訳に没頭していた。
本日、習志野市袖ヶ浦自宅より依頼を受け、お伺い、車椅子にて
習志野市谷津 東京湾岸リハビリテーション病院に
通院治療をされ戻りました。