船橋市
<インタビュー>構想30年、自主映画「菊とギロチン」に込めた思い 瀬々敬久監督【前編】
「64-ロクヨン-」(2016年)、「最低。」(17年)、「友罪」(18年)など、近年コンスタントに商業映画を撮り続ける瀬々敬久(ぜぜ・たかひさ)監督(58)が、「ヘヴンズ ストーリー」(10年)以来、8年ぶりに手掛けた自主映画「菊とギロチン」(2018年)。大正末期の関東大震災直後、不寛容な社会に向かう時代に実存した「強くなりたい」と願う女相撲の一座と「格差のない平等で自由な社会」を目指したアナキスト集団「ギロチン社」をモチーフに描いた青春群像劇だ。「やるなら今しかない」。そんな並々ならぬ熱意が伝わる同映画について、瀬々監督に聞いた。【聞き手・西田佐保子】
◇3.11以降に書き直した脚本
--「菊とギロチン」は、構想30年の末に完成したということですが、関東大震災後と3.11後の日本社会における類似性も指摘した「今、まさに見るべき映画」に仕上がっています。
当初からギロチン社に、女相撲を合体させて話を作ろうと思っていましたが、初めは韓英恵(はなえ)さん演じる在日朝鮮人の女性「十勝川」は北海道出身の力士という設定で、よりフィクション性の強いストーリーでした。
その後、東日本大震災をきっかけに、関東大震災後の日本に関する資料を読み直して、朝鮮人虐殺事件に関わった自警団の構成員を調べました。すると、どうやらその中心に在郷軍人会の存在がある。国家の自警を目的とした在郷軍人会は、帰還兵から構成されていて、その多くは元農民だった。戦争に出たはいいが、戻ってきたらいろいろ周りから非難されて、犯罪を起こした人たちも多い。朝鮮人を虐殺した側である彼らの事情も分かってきました。
史実ではこの時期、ギロチン社のリーダーである中濱鐵(てつ)と、古田大二郎は、千葉県船橋市にある海水浴場の別荘にいて、映画にもあるように、その近くにあった習志野市の習志野軍営倉内では虐殺が行われていた。この二つの歴史を結びつけて、虐殺に関わった在郷軍人会の人たちをストーリーに取り入れました。
そこに至るには、3.11以降の特定秘密保護法や共謀罪の施行、世界的にも極右政党が台頭してくるような世の流れが、関東大震災以降の戦争へ突入する時代とリンクすると思うところもあった。いつまでも準備していてもしょうがないので、「ここで作ろう」と、無理して撮りました。
◇完成形ではない、途上の人たちの魅力
--ピンク映画監督時代の作品、「アナーキー・インじゃぱんすけ見られてイク女」(1999年)ではタイトルに、また「禁断の園ザ・制服レズ」(92年)にはアナキスト集団「東アジア反日武装戦線」が出てきます。アナキストに対して、興味やシンパシーを抱く理由は?
京都大学の映画部に所属していた頃、学生が運営する「西部講堂」で自主上映会をやっていて、学生だけじゃなく、芝居や音楽活動をしている外部の人も集まってきました。僕より10歳ほど年上の人もいましたね。そんな多様性のある「自主管理、自主運営」の場にいた経験が大きい。アナキズムとは無政府主義と訳されますけど、自由や自主自立を旗頭としているギロチン社の人たちと自分たちが青春時代を過ごしていたときの感性は、似ているところがあると思います。
--ギロチン社が登場する映画を、神代辰巳監督、中島貞夫監督、山田勇男監督が撮り、生前の鈴木清順監督も企画していました。同時代のアナキストであれば、吉田喜重監督が「エロス+虐殺」(70年)で題材にした大杉栄や、韓国のイ・ジュンイク監督が「朴烈(パクヨル)植民地からのアナキスト」(2017年)で題材にした朴烈もいます。なぜ多くの監督がギロチン社にひかれるのでしょうか。
彼らの持ついいかげんさが魅力的なんじゃないですか。組織というよりも、皆がワイワイギャーギャー言いながらやっている感じですよね。それはどこか青春の青さにも近いし、若さの象徴で、完成形ではない、途上の人たちの魅力がある。誰が見たって大杉は大家ですよね。大家を描くのは映画的に面白くなかったりもする。どこかダメなところがあったりする人間の方が感情移入しやすいし、自分に近しいところを発見できたりもする。そんなギロチン社の「世の中変えたい」「困った人を助けたい」という純粋な気持ちにひかれるのだと思います。
--ギロチン社のメンバーは、自由に生きることを求めます。その前に、自らの置かれた環境や社会に対する怒りがあります。
虐げられている人たちへの共感が怒りに転じる気がするんですね。他者への共感って皆それぞれ持っているじゃないですか。「何とかしたい」という気持ちが怒りに変わって、そこが「共に闘おう」という意識につながる。アナキストは、自由を求めると共に優しさがある。その優しさは共感から始まっているのではないでしょうか。
◇女相撲を目指す女性に共感した理由
--理想を語るものの実際に行動を伴わないギロチン社の男たちに対し、地に足をつけ「強くなって、人生を変えたい」と願う女相撲を絡ませています。そもそも女相撲はどのような点に興味を持たれたのですか?
1990年に出版された「プロレス少女伝説」(井田真木子)を読んで、女子プロレスの元祖として女相撲があることを知りました。江戸時代には目の悪い座頭と戦わせる見せ物興行だったのが、明治時代には練習を重ねた女相撲の一座が農村を中心に全国興行するようになった。家父長制度がガッチリあって女性は虐げられていた時代だったから、それを見た農村の若い女性が「女でもこんな強くなれるのか」と、家出同然でその一座について行った。家を飛び出してまで自分を変えようと願う彼女たちに感銘を受けて、観念的なアナキストたちと女相撲の一座を合体させたら、化学変化を起こしてドラマが生まれると思いました。
一方、自分自身がピンク映画を作っていたことも関係しています。やっぱりピンク映画は一つ下級なものだと思われているじゃないですか。映画にもあったように、女相撲にもポロリが期待されるといったエロス目線があるわけですよ。「それでも女相撲をやりたい。自己実現したい」という気持ちに、当時の自分の思いがオーバーラップしたのかもしれませんね。
◇映画初出演の寛一郎さんのオーラと存在感に懸けた
--東出昌大さんは、どのような経緯で出演されたのでしょうか。
韓さんと山田真歩さんは出演者募集したとき、メールで応募してくれてキャスティングしましたが、最初は出演者を全員オーディションで選ぶつもりでした。でも中濱役が決まらない。東出君と山田さんは同じ事務所なので、もしかしたら脚本を読んでいたかもしれないんですけど、キャスティング担当者が「東出君はこの時期スケジュールが空いているし、歴史に興味があるから出る可能性大」だと。それで、オファーしたら二つ返事でOKしてくれました。彼は男っぽい性格で、リーダー的な資質もあるので適役でしたね。
--俳優の佐藤浩市さんの息子でもある寛一郎さんは映画初出演ですね。
「浩市さんの息子が芝居をやってみたいらしい」と関係者に言われて、一度会って雑談して、「オーディションがあるから参加してみたら」と声をかけたら実際参加してくれたんです。だけど、当然芝居はまだまだ。オーディションのとき、殴り合いのシーンをやらせたら、倒されたときにTシャツがめくれて腹が見えてしまうと演技しながらTシャツを下げて隠そうとするんえすよ(笑い)。恥ずかしいんでしょうね。そんな役者いないじゃないですか。でも最終的に決めたのは、あの顔つきとオーラ、あと独特の存在感。それに懸けました。
--古田役の寛一郎さんと倉地啓司役の荒巻全紀(ぜんき)さんの爆弾実験シーンは印象に残りました。
決して芝居がうまいわけじゃないけれど、グッとくるものがあるってことですよね。あのシーンは映画の後半ですが、実際は撮影の前半に撮っています。寛一郎君は役者として初めての映画なので、どうしたらいいか分からない。「このままだと自己を解放せずに終わるんじゃないか」という焦りがありました。だから撮影の前日、セリフを膨大に増やしました。荒巻君の「何やそのお前の坊ちゃん面」ってセリフ、あれはあえて書いたの(笑い)。「お前は本当に俺たちのことを思ったことがあるのか」って批判的なセリフも書き足しています。寛一郎君の態度がどこか一歩引いた目線で、皆に入り込んでいけなかったんですよ。それで最後に荒巻君が「でもおれはあいつが死んだら悲しい。俺が死んだらどう思うんだ。お前が死んでも悲しいよ」ってセリフも加えた。
撮影時にそれでもまだ解放されないから、首を絞めて「俺を殺せ!」とか「しばらくどこかで考えてこい!」って叫んだりしたけど、急に0から10になるはずもない。だけど妙な迫力と言うか、訳も分からず“途上の人たち”が必死に向かっていく姿が、人を震わすシーンになっていると思います。
--どの段階でOKを出しましたか?
完全ではないけど、手応えはあったという感じだったと思います。あの日、お昼から別のシーンを撮るはずだった東出君が待機していた。でも林の向こう側で僕の絶叫が聞こえる(笑い)。すると彼が「僕ができることがあったら何かやりますか」と言ってくれて、翌日、自ら車を借りて、寛一郎君をドライブに連れて行ってくれた。自分の経験を話したり、寛一郎の気持ちも聞いてやったりしたんだと思いますよ。あれからですね、寛一郎君が徐々に変わっていった。だから映画の最初と最後では全然違う顔になっているんですよ。(後編に続く)