遊園地が激減 横浜ドリームランドのヘイヘイおじさんが回顧
ディズニーリゾートの「3000億円大拡張」発表の陰で、全国の遊園地はこの20年で3分の2にまで激減している──。
2002年に閉園した遊園地の『横浜ドリームランド』。その跡地から歩いて10分ほどの古いアパートのある一室には『ヘイヘイおじさん』と書かれた表札が掲げられていた。ここに住む、76才の新井俊次さんは、かつて横浜ドリームランドのスター社員だった。新井さんが振り返る。
「24才で開園と同時にドリームランドに入社して、それから30年以上『ミュージックエキスプレス』というアトラクションを担当していたんだ。お客さんを盛り上げようと、当時大ヒットしていたフィンガー5の『学園天国』を歌いながら仕事をしていたら、いつの間にか『ヘイヘイおじさん』と呼ばれるようになってさ。おれがお昼の休憩に入ると、お客さんは乗らないで、戻るのを待ってるのよ(笑い)」
現在は大学や公園などに姿を変えた“夢の跡”を、新井さんと一緒に歩いてみた。
「敷地のほとんどは、今は大学になっちゃった。おれがいたミュージックエキスプレスは、公園内の野球場になっているあたりだね。今も学生たちでにぎわっているけれど、当時はもっとすごかった。そんなお客さんたちを喜ばせようと、社員が一丸となってたね」(新井さん)
『ヘイヘイおじさん』として人気を博したため、会社も40万円の金色のスーツを特注で作った。これに、ファンからプレゼントされた缶バッチがたくさんついた黄色い帽子。こんな姿で『ヘイヘイおじさん』はお客さんに笑顔を届けていた…。
「当時のドリームランドには、子供たちが次から次へと押し寄せて…。ミュージックエキスプレスにも『おじさんに会いたくて今日6回目』と、笑顔で乗り込んでくる子がたくさんいてうれしかったね」
あの頃の遊園地には、夢いっぱいの子供たちがいた。そして、一社員をスターにするほどの情熱と熱狂が渦巻いていた。
◆ゴーカートは憧れと都会の象徴だった
以前は、全国各地に『横浜ドリームランド』のような「我が心の遊園地」が存在していた。フリーアナウンサーの生島ヒロシ氏(66才)が語る。
「小学生の頃、夏休みのたびに連れて行ってもらった、親父の地元の横浜『野毛山公園』にあるゴーカートが、自分の原点なんです。住んでいた気仙沼(宮城)には遊園地がなかったから、すごくびっくりした。親父に『今年もあそこに連れて行って!』とよくねだっていました。66才の今でも、当時の高揚感が鮮明に思い出されます。あそこのゴーカートは私の中で『憧れ』や『都会』の象徴でした」
栃木県在住の60代男性は、こんな思い出を語る。
「子供たちに楽しい思い出を作ってやりたい一心で、仕事で疲れた体を奮い立たせて、近くの『小山ゆうえんち』によく行ったものでした。ひととおり遊んでお腹が空くと、いつもみんなで屋台の大きな肉まんを頬張った。お化け屋敷で子供が泣いてしまったり、当時流れていたCMの桜金造さんのモノマネをしてみんなで大笑いしたりした。家族の楽しかった思い出は全部、小山ゆうえんちに詰まっています」
1980年代にアイドルとして活躍した芳本美代子(48才)は、遊園地を「アイドルの登竜門だった」と振り返る。
「MCとして出演していた1989年の『アイドル共和国』は毎回、西武園ゆうえんちで収録されていたんです。デビュー前のSMAPがレギュラーとして出演していて、今思えばすごく豪華な番組だった。ライブハウスやコンサート会場と違って、遊園地のステージは客席との距離が近く、お客さんの顔がはっきり見えました。『あの人、前も来てくれた人だ』と気づいたり、歌詞を忘れたときにお客さんが助け船を出してくれたり、ファンのかたと近くで触れ合えるのが、うれしかったですね」
つづく