「自国民でも殺す」で殺された韓国大統領

「自国民でも殺す」で殺された韓国大統領

1979年、韓国の朴正熙大統領が、実質的な政権ナンバー2に射殺されました。なぜそんな事件が起きたのか。殺害現場には2人の若い女性。大統領が月に数回、若い女性を集めて催す「行事」の最中だったのです。しかも、朴大統領は死の直前、政権への反対デモを封じるため、「自国民でも殺す」と宣言していました――。

 

大統領専用の秘密施設
それは大統領官邸「青瓦台」の西側の一画、鍾路区の宮井洞にありました。レンガ造りの二階建ての建物で、高い塀に囲まれており、要人の私邸のような表構え。政府関係者さえも、多くが秘密施設の存在を知りませんでした。
後に明らかになったことですが、この建物は当時のKCIA(韓国中央情報部)が管理運営する「安全家屋(安家)」と呼ばれる施設でした。朴正熙(パク・チョンヒ)大統領はいったい、ここで何をしていたのでしょうか。
宮井洞の安家では、大統領のための酒宴がひんぱんに行われていました。当時のKCIA(中央情報部)の朴善浩(パク・ソンホ)儀典課長の証言によると、大統領、中央情報部長、秘書室長、警護室長などの大統領側近も加わった「大行事」が月2回程度、朴正熙だけの「小行事」が月8回程度。そして朴善浩は、「行事」ごとに同席する女性を2~3名手配する任務を負っていました。(*1)
KCIAの「裏の任務」
朴正熙はタレント志望の学生やモデル、歌手や女優を好みました。また、同じ女性が再度呼ばれることはほとんどありませんでした。夕方頃に、その夜が「大行事」になるか「小行事」になるかの連絡が朴正熙から大統領警護室長にあり、警護室長はKCIAの儀典課長に指令を出し、女たちを大急ぎで確保させていました。
諜報機関のKCIAがこのような指令に奔走したというのは驚きですが、KCIAは国民の個人情報を一手に握っており、大統領にとって安全な女を選び出すことができました。そして、KCIAは女たちに「秘密施設でのことを口外してはならぬ。お前を見張っている」と半ば脅迫し、大統領の元へ送りました。KCIAには打ってつけの任務だったのです。
実際に、KCIAを恐れて、口外する女はいませんでした。それでも、娘が母親に告げ、母親が「娘が大統領の慰み者になった」と怒鳴り込んで来たこともありました。この母親は「娘を大統領夫人にするように」と執拗に迫ったそうです。
朴正熙がテレビに出ている歌手や女優を見て、「一度、彼女に会いたい」と言えば、秘書がすぐにKCIAに連絡を取り、KCIAはその歌手や女優が所属するプロダクションに圧力をかけ、差し出させました。差し出しを拒めば、テレビ局からのオファーが無くなるということもあったようです。その中には、国民の誰もが知っているようなスターたちも含まれ、呼び出された女性は200人を超えたとの話もあります。

 

そして起こった運命の「10・26事件」
1979年10月26日午後7時40分頃、この秘密施設での「大行事」の最中、朴正熙は暗殺されます。KCIA部長で朴正熙の側近であった金載圭(キム・ジェギュ)が、朴を撃ち殺したのです。
酒宴の席には、朴正熙、警護室長の車智澈(チャ・ジチョル)、秘書室長の金桂元(キム・ケウォン)、タレント志望の女子大生1名と歌手1名、金載圭を入れて計6名がいました。この席で朴正熙は、当時の反朴政権活動に対するKCIAの失態について、金載圭を叱責しはじめました。車智チョルも大統領と一緒になって、金載圭をなじりました。
すると金載圭は腰から拳銃を取り出し、車智澈に銃口を向け、朴正熙に「閣下、こんな虫けらのようなヤツと一緒に政治ができますか」と叫び、車を撃ちました。そして、「何をしている!」と怒鳴った朴正熙に向かっても、引き金を引きました。
朴正熙と車智澈にとどめを刺そうと、金載圭はさらに拳銃を撃とうしますが、拳銃が故障して作動しません。そこで、金載圭は外で待たせておいた部下の朴善浩から拳銃を借り、部屋に戻ります。
車智澈は腕を撃たれていました。胸を撃たれ意識不明の大統領を置いて部屋から脱出しようとした車智澈は、戻ってきた金載圭に出くわして射殺されます。金載圭はさらに、倒れていた朴正熙に近づくと、頭部を撃ってとどめを刺しました。同席していた秘書室長の金桂元と、2人の女性は逃がされました。
政権ナンバー2の男がなぜ
大統領を射殺した金載圭とは、いったい何者でしょうか。金載圭は朴正熙よりも9歳年下でしたが、1946年に設立された南朝鮮国防警備隊士官学校では同期でした。日本陸軍にも従軍経験があり、日本名は金本元一です。
朝鮮戦争では将校として活躍します。持ち前の真面目さと勤勉さで、周囲からも高く評価され、准将に昇進します。
1961年、朴正熙が起こした5・16軍事クーデターに、金載圭は直接関わってはいませんでしたが、朴正熙と同郷の慶尚北道亀尾市出身ということもあって、後に大統領の目に止まります。実直な金載圭は朴正熙に忠誠を誓うようになり、朴正熙もそれを評価し、要職を歴任させます。旧日本陸軍出身ということもあり、金載圭と朴正熙はよく日本語で密談していたという話もあります。1976年、金載圭は遂にKCIAの部長に就任し、実質的な政権ナンバー2となります。

 

朴正熙の娘である朴槿恵(パク・クネ)前大統領のスキャンダル「崔順実(チェ・スンシル)事件」も、その源流をさかのぼると金載圭の名前が出てきます。崔順実の父親である崔太敏(チェ・テミン)は新興宗教の教祖で、1974年の文世光事件で母を失い悲しみに暮れていた朴槿恵に接近したのです。朴槿恵は崔太敏を信じました。
朴正熙は崔太敏を不審に思い、調査させます。当時、KCIAの部長であった金載圭は「崔太敏と朴槿恵が部屋に入れば、一日中出てこない」という内容の報告を大統領にしています。また、崔太敏率いる宗教団体「大韓救国宣教団」のさまざまな不正も、金載圭が調査し、大統領に書類を提出していました。
朴正熙が崔太敏と朴槿恵の2人を呼んで直接、聞いたところ、崔太敏はこう答えます。「私たちは霊的な家族や夫婦のようなものであって、肉体に関する浅ましい話はしないでほしい」(*3)。朴槿恵の弁護もあり、大統領は納得し、金載圭を叱責しました。しかし、今から思えば、崔太敏に危険を感じていた金載圭は正しかったのです。
「100万や200万程度殺しても心配ない」
では、朴に忠実であった金載圭がなぜ、朴を射殺したのでしょう。事件から40年近くたった今も、その動機については韓国内で意見が別れています。
朴大統領殺害事件の捜査指揮を執っていた保安司令官の全斗煥(チョン・ドゥファン、後に大統領)は、金載圭が自ら大統領になろうとして朴を殺したと断定し、「内乱目的殺人罪」で起訴しました。一方、金載圭本人は事件後の裁判の最終陳述で、事件は韓国の建国の理念である「自由民主主義」を回復するために起こした革命である、と主張しました。
車智チョルと金載圭という側近同士の対立が、事件のきっかけとなったという見方もあります。傲慢不遜(ごうまんふそん)で年上の人間にも敬語を使わず、本来KCIAの領分である政治にまでしばしば口を出す車智チョルと、自分こそが朴の忠実な部下であると自認する金載圭との間には、事件のはるか以前から確執がありました。以前から仕事上2人をよく知っており、問題の宴席にも同席して生き残った秘書室長の金桂元は、大統領の面前で8歳も歳下の車智チョルにトゲのある皮肉を投げかけられ、激怒した金載圭が偶発的に事件を起こしたのではないかと、法廷で証言しています。
しかしそれならば、朴正熙までを殺す必然性はなかったはずです。そこで浮かび上がるのが、当時の「釜馬民主抗争」に対する朴正熙の対応です。

 

 

大統領暗殺より10日ちょっと前の1979年10月4日、韓国の国会で、最大野党の新民党総裁である金泳三(キム・ヨンサム)の除名決議案が、与党の画策により通過しました。金泳三の地元である釜山とその隣の馬山市(現昌原市)では、これに反発した学生や市民による、反朴政権の大規模デモが発生します。
内乱を危惧する部下、流血も辞さない大統領
この「釜馬民主抗争」の情勢を分析していた金載圭らKCIAは、「事態は深刻で、放置すれば暴動が5大都市(ソウル、釜山、仁川、テグ、光州)すべてに広がり、内乱になる」と朴正熙に報告しました。金載圭は自ら釜山を視察し、朴正熙政権の破局の可能性を感じ取っていたのです。
しかし朴正熙は、「KCIAが手ぬるいから、こんなことになった!」と激怒しました。報告の場にいた車智澈は大統領に同調し、「閣下、カンボジアでは(ポル・ポト政権が)300万程度殺しても問題ありませんでした。デモ隊を100万や200万程度殺しても心配ありません」と暴言を吐きます。朴正煕は「今度は大統領である私が発砲命令を下す!」と叫んだといいます。
金載圭は肝硬変を患っており、そう長くは生きられないことを自覚していました。流血の惨事を防ぐためにも、自国民への発砲命令をも辞さない大統領の暴走を終わらせることが自らの使命であると、覚悟を決めたとも考えられます。
金載圭は裁判の結果、絞首刑となります。

次回は、朴大統領暗殺後の大混乱を追っていきます。