習志野市 日本に住みつき「技術」を伝えたドイツ人捕虜たち
第1次世界大戦時、日本に多くのドイツ人捕虜がいたことを知っているだろうか。彼らは、中国・青島から連行されたドイツ兵。その一部は大戦後も日本にとどまり、さまざまな技術を伝え、日本の発展に寄与した。第1次大戦において日本が英国と共に実行した「青島攻略戦」と、その後のドイツ人捕虜による知られざる「技術移転」を紹介しよう。
■ ドイツらしい重厚さを醸し出す青島の建物
本日(2018年9月11日)から、ロシア・ウラジオストクで「東方経済フォーラム」が開催される。主催はプーチン大統領。ロシア極東に投資を呼び込むための国際会議である。日本の安倍首相はこの機会を利用して中国の習近平総書記との会談をもつことになっている。
ウラジオストクは、日本海に面したロシア極東の中心都市である。国際港湾であり、軍港でもある。ソ連時代には外国人の立ち入りが禁止されていた。
「日本からいちばん近いヨーロッパ」というキャッチフレーズのウラジオストクだが、中国にもヨーロッパ風の街はある。例えば、かつては満州の都市であり、現在は中国領の哈爾濱(ハルビン)や大連などはロシア風だ。ハルビンには現在は使用されていないがロシア正教の教会堂もある。ヨーロッパ風の街は、ほかにもある。かつて「東洋の魔都」と呼ばれた上海の外灘(バンド)には、英国やフランスの建築物が並んでいる。
だが、忘れてはならないのは、ドイツ風の街、山東省の青島(チンタオ)だろう。青島は黄海に面した国際港湾であり、軍港である
青島の「八大美風景区」には、ドイツ時代に建設されたカトリックとプロテスタントの教会建築や、旧ドイツ領事館など、いかにもドイツ風の重厚な建築物が現在まで残り、観光資源となっている(下の写真)。かつて青島がドイツの植民地であった時代に作られた建築物だ。青島に残る洋館は、いかにもドイツらしい重厚さを醸し出している。
ドイツが青島を失ったのは1914年。第1次世界大戦の最初の年に、日本に敗れて奪われた。青島が日本に占領されると、捕虜となったドイツ人将兵は日本に送られて捕虜収容所に収容された。ドイツ人の捕虜のなかには、そのまま日本に定住してドイツ本国に戻らなかった者もいる。そうやって日本に住み着いたドイツ人から日本人への技術移転があったことをご存じだろうか。今回はそんな知られざる日独交流史の一コマを取り上げてみたいと思う。
■ 青島に入植して町を造ったドイツ人
日本人が青島を「チンタオ」と読めるのは、なんといっても青島啤酒(=チンタオビール)のおかげだろう。緑色のボトルのチンタオビールは、ドイツの技術によって1903年に製造が開始された。現在でも青島の工場で生産されている。
青島は1898年から1914年までの16年間、ドイツの植民地であった。「日清戦争」(1894~1895年)による勝利で日本が獲得した遼東半島は、ドイツ・フランス・ロシアによる「三国干渉」で返還させられたが、清朝に恩を売ったドイツは、山東半島の青島を99年リースで租借したのである。先に触れたハルビンや大連は、同時期にロシアが租借して建設した。
ドイツが青島を租借して中国進出の橋頭堡としたのは、国家統一が1871年と大幅に遅れ、アジア進出で英仏に後塵を拝していたからだ。青島に目をつけたのは、そこがいわゆる「天然の良港」だったからである。日本海側の舞鶴と同様の理由である。現地の中国人が言うには、海と山が美しい景観を作り出している青島は「風水都市」なのだそうだ。山から下りてきた「気」が海に向けて流れて龍脈を形成しているのだ、と。
ドイツは、膠州(こうしゅう)湾の入口に青島港を建設して「ドイツ東洋艦隊」の拠点とした。国際貿易港にして軍港というセットは、現在の中国にも引き継がれている。青島は、中国海軍の原子力潜水艦基地である。
青島に入植を開始したドイツ人は、そこにドイツ風の町並みを造り上げた。はるか遠いドイツ本国から、軍港に勤務する将兵だけでなく、職人も含めた多くの民間人がドイツから入植してきた。青島に移住した民間人たちもまた、新天地で人生を切り開くという意欲に満ち満ちていたのだろう。
だが、そんなドイツ人入植者たちの希望は、戦争によって断ち切られることになる。第1次世界大戦が勃発してドイツと英国が戦闘状態に入り、英国と同盟関係にあった日本がドイツと交戦することになったからだ。青島は、日本から最も近いドイツの領土であった。
■ 英国とともに青島を攻略
第1次世界大戦が1918年に終結してから今年で100年になる。意外と日本人は意識していないようだが、第1次世界大戦では日本は「戦勝国」だった。二度の世界大戦を引き起こし、しかも二度にわたって「敗戦国」となったドイツとはそこが違う。
日本ではあまり報じられていないようだが、先日のフランスの「革命記念日」(7月14日)の軍事パレードに日本の陸上自衛隊が参加した(下の写真)。フランス海軍強襲揚陸艦「ミストラル」部隊を真ん中にして、シンガポール空軍フランス駐留部隊とともに、パレードの先頭を切ってシャンゼリゼ通りを凱旋門から600メートルにわたって行進したのである。日本がその名誉を担ったのは、今年2018年が日仏交流160年にあたるからだけではなく、日本とフランスは第1次世界大戦の「戦勝国」であったからだ。
ドイツとの戦いで国土が焦土と化したフランスとは異なり、ヨーロッパから遠く離れた日本はまったく被害がなかった。日本にとっての主戦場は青島だった(地中海やインド洋などにも軍艦を派遣しているが、青島ほどの激しい戦闘はなかった)。
日本は英国の呼びかけを機に、1914年に青島攻略作戦を実行することになる。青島攻略作戦は、1914年8月23日に宣戦布告、9月14日に主力部隊が上陸し、同年11月7日にドイツ側の降伏で終結した。軍備の手薄な植民地のドイツ軍は、無用な死傷者が増大する前に名誉を保ったまま降伏をする決断を下したのである。ドイツ本国にいた皇帝のヴィルヘルム2世は大いに悔しがったことであろう。かの悪名高い「黄禍論」をまき散らした人であったからだ。
青島には難攻不落とされたビスマルク要塞が建設されていたが、ちょうど10年前の日露戦争の際の旅順要塞攻撃の肉弾攻撃とは異なり、日本軍は徹底的な砲撃を行った。その砲撃が功を奏し、歩兵突撃が実行された際には、さしたる抵抗もなく占領することができた。
ただし、事前の準備として陣地構築には2カ月をかけている。総攻撃を開始した10月31日からわずか2週間で決着をつけているが、ほぼ2週間の青島攻略戦で使用された砲弾は、重量ベースでみると、日露戦争で6カ月に及んだ旅順攻撃戦で使用された4000トンの約4割に該当するという。いかにすさまじい砲撃が行われたかがお分かりいただけよう。
青島攻略戦は、日本にとっては初めての物量中心の「近代戦」となった。航空機も投入され、アジア初の空中戦が行われただけでなく、世界で初めての空爆が日本の航空隊によって実行されている。
青島攻略作戦には、英国軍も参加している。「日英同盟」を結んでいる英国の呼びかけで参戦を決めた日本だが、「日本側に領土獲得の意図があるのでは」と疑念を感じた英国が、自国も将兵を派遣することを条件としたためである。日本陸軍の総勢5万1700人に対して英国陸軍は1390人、対するドイツ側は5000人規模であった。
青島攻略戦は、史上初の日英共同作戦となったが、そもそもドメスティック志向の陸軍は国際共同作戦には不慣れであり、戦場における日英関係はぎくしゃくしたものであったらしい。また、アジア駐留の英国軍はインド兵が多くを占めていたとはいえ、日本人からすれば英国人は同じ白人にしか見えない。そのため、ドイツ兵と誤認されて撃たれたり、捕虜になってしまった者が少なくなかったらしい。一方、海軍においては、もともと帝国海軍が英国海軍をモデルに設計されたため将校は英語を理解しており、連携はスムーズにいったようだ。
■ 国際規定を遵守していた日本の戦争捕虜の取り扱い
青島攻略戦はたった3カ月弱で終わった。双方の被害は、日本の戦死者210人、英国の戦死者160人に対してドイツ側の戦死者は210人であった。
日本の捕虜となったドイツ兵は4689人である。そのなかには、オーストリア=ハンガリー軍の将兵も含まれる。日露戦争の際のロシア人捕虜が約8万人だったのと比べると、数量的には少なかったといえる。
ドイツ人捕虜は日本全国の12カ所に収容されたが、収容所決定に際しては誘致合戦もあったらしい。経済的な波及効果を期待してのものだ。だが、その後も戦争が長引いたため、12カ所の収容所を6カ所に集約することになった。久留米(福岡県)、名古屋(愛知県)、習志野(千葉県)、青野原(兵庫県)、似島(広島県)、板東(徳島県)の6カ所である。
「先の大戦」での日本軍による捕虜虐待の話ばかりが語られるので、ウンザリしている人も少なくないと思う。もちろん、日本軍が行った捕虜虐待に情状酌量の余地はない。だが、第1次世界大戦時までは戦争捕虜の扱いに大きな問題がなかったことは、歴史的事実としてきちんと押さえておく必要がある。
大衆作家の長谷川伸に、『日本俘虜志』(中公文庫)というノンフィクション作品がある。日露戦争当時の日本が、いかに西欧列強によって規定された「国際基準」を遵守することに努めていたか、豊富な事実を基にまとめた作品だ。当時はまだキャッチアップ段階にあった近代日本は、西欧が主導する国際社会で認められるために、それはもう涙ぐましいまでの努力を重ねていたのだった。
日露戦争後の1907年に調印された「ハーグ陸戦規定」によって、捕虜の取り扱いが決められ、日本も1911年に批准している。捕虜の処遇は国際基準によって行われており、基本的に所属国の軍隊組織に従って自治組織をつくることが認められていた。これは捕虜を取り扱う日本側にとってもありがたいことだった。管理の手数を減らすことができるからだ。
収容所長や補佐役にドイツ語ができる将校があてられていたことも、ドイツ人捕虜の扱いがスムーズにいった理由に挙げられる。陸軍ではドイツ語が主流であった。なかでも徳島県の板東収容所は、所長の松江陸軍大佐が会津藩出身で少年時代に辛酸をなめており、所長の温情あふれる捕虜扱いが、現在も語りつがれている。ベートーヴェンの「第九」の日本初の演奏がドイツ人捕虜によって実現されたのも松江所長の人徳のおかげと言うべきであろう。このエピソードは、主役の松江所長を松平健が演じた『バルトの楽園(がくえん)』(2006年公開)として映画化されている。
だが、第1次世界大戦後に「戦勝国」となった日本は、世界の五大国の一国とみなされ、「国際連盟」の常任理事国の一国となったこともあり、知らず知らずのうちに増長していった。自信過剰から自虐へ、反転して自虐から自信過剰へと、振幅の揺れが激しいのが日本人の特性だが、第2次世界大戦での捕虜虐待は、自信過剰と傲慢が生み出した日本史の汚点と言わねばならない。
その意味でも、第1次世界大戦時のドイツ人捕虜の取り扱いについては、日露戦争時のロシア人捕虜の話とともに、国際基準を意識していた時代の日本人の振るまいがいかなるものであったかを知るうえで、比較の対象として取り上げるべき事項なのである。
■ 習志野に収容されたドイツのソーセージ職人
では、第1次世界大戦時に日本で捕虜はどのように扱われたのか。
ドイツ人捕虜は、収容所で過ごしていた期間にもさまざまな活動を行うことが許されており、スポーツ大会やオーケストラ演奏などを通じて地域社会との交流が行われていた。
日本人から依頼されて技術指導を行っていた者も少なくない。たとえば、「ロースハム」という名称の考案者とされ、ハム・ソーセージ職人として帝国ホテルで働いたアウグスト・ローマイヤー氏、「ホットドッグ」を日本で広めたと言われる屠畜職人のヘルマン・ヴォルシュケ氏、敷島製パンに技師長として迎えられたハインリヒ・フロイントリープ氏などがそうだ。
そのなかでも日本で最も知られているのは、菓子職人のマイスター(=親方)であったカール・ユーハイム氏であろう。青島で菓子店を開いていたユーハイム氏は、民間人でありながら日本に強制連行され捕虜として抑留されてしまった不運の人である。だが、収容所から解放された後は日本に定住することを決意し、最終的に神戸で洋菓子店を成功させている。そのおかげで、バウムクーヘンなど本格的なドイツの洋菓子が日本に定着することになったのである(参考:「ユーハイム物語」)。
こういったエピソードに私が興味を持つようになったのは、実は私が住んでいる地域にも、ドイツ人捕虜収容所の「習志野捕虜収容所」が設置されていたからだ。
習志野では、捕虜となったドイツ人の職人からソーセージ作りの技術が日本に伝えられた。習志野が「日本のソーセージ製法 伝承の地」となった背景には、当時の日本の農商務省(現在は農林水産省と経済産業省を合体したもの)が、高栄養価食品としてソーセージに注目していたことがある。ドイツ人捕虜のカール・ヤーン氏などの職人が習志野捕虜収容所でソーセージを製造していることを聞きつけ、畜産試験場の技師を派遣して製造の秘伝を公開してもらったのだそうだ。その後、ソーセージ製造技術は、農商務省の講習会を通じて日本全国の食肉加工業者たちに伝わっていった。