ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない 北方領土交渉1/20(日) 8:30配信

北方領土交渉の進展が期待される1月22日の日露首脳会談ですが、北方領土をめぐっては、歯舞群島(はぼまいぐんとう)と色丹島(しこたんとう)の返還を軸とした「2島返還プラスアルファ」論も報じられるようになってきました。しかし、軍事ジャーナリストの黒井文太郎氏は「ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない」と指摘します。それはどういうことなのか。これまでの北方領土交渉の経緯を振り返りながら、黒井氏が解説します。

返還を期待させる日本メディアの報道は「不思議」

「なぜ日本政府はいつも島のことばかり言うのですか? ロシアの領土を私たちが渡すわけがないじゃないですか。形だけでも交渉してくれと日本の外務省が頼んでくるので、何も約束しない範囲で付き合っていますけど、これいつまで続けるつもりなのですかね」

 これは1990年代のエリツィン政権時代に、プライベートで交流があったロシア外務省の日本担当者が私に言った言葉です。

 私はかつてモスクワに2年ほど住んだことがあり、北方領土問題についてロシア側を取材していたことがあります。日本では1991年4月のゴルバチョフ初来日の前あたりから、日本の経済協力と引き換えにロシア(ソ連)が北方領土を返還する可能性があると度々報じられてきました。日露交渉はエリツィン時代も続き、「交渉進展か」との観測記事も頻繁に報じられてきました。それはプーチン政権になっても同様で、今日まで続いています。

 ところがこの28年間、1ミリたりとも領土は返ってきていません。つまり、繰り返されてきた領土返還を期待させる報道は、すべて「誤報」だったわけです。

 この日本メディアの報道を私は不思議に思っています。というのも、ロシア側からは28年間、領土返還への取り組みを示す情報が一切、出てきていなかったからです。ロシア側の政官界を取材して私が最初にこの問題の記事を書いたのは、前述したゴルバチョフ初来日の直前で、「最弱の支配者ゴルバチョフでは北方領土は還らない」という週刊誌記事でした。その後、エリツィン時代も同様の記事を発表してきました。

 プーチン政権になってからはこの問題で現地取材はしていませんが、特にロシア側の情報を細かくチェックしています。日本メディアが「交渉進展か」と報じる度、その根拠が「日本側の関係者がそう言った」以外にファクトが一切存在していないことを確認しています。

2001年に日ソ共同宣言を法的文書と確認したが……

 では、実際にどのような動きがあったのでしょうか? リアルな交渉の経緯を列記してみます。(肩書き等はいずれも当時)

1991年3月
 ソ連経済が崩壊し「カネで領土が買える」論が日本で浮上。特に同年4月のゴルバチョフ初来日の前に期待値は最大になります。日本では自民党執行部に怪しい領土返還話が持ち込まれ、大蔵省に資金支出も根回しをした上で、3月に小沢一郎幹事長が訪ソしてゴルバチョフ大統領と会談しました。が、まったく相手にされずに終了。

1992年3月
 コズイレフ外相と渡辺美智雄外相の会談の際、同席していたクナーゼ外務次官が非公式に「平和条約締結と2島引き渡し」に言及しました。ただし、ロシア政府が承認した公式提案ではなく、あくまでクナーゼ次官個人の行動でした。ロシア側では一切検討もされていません。

1993年10月
 東京宣言。初めて領土問題の存在が確認されました。日本側では「交渉進展」と盛り上がりましたが、返還への文言は一切盛り込まれていません。

1997年11月
 クラスノヤルスク合意。「2000年までに平和条約締結を目指す」と合意され、日本側でだけ「交渉進展」と盛り上がりました。

1998年4月
 川奈提案(※)。国境を4島の北に定めるかわりに、施政権をロシア側に残すことを日本側が提案。日本側関係者からは「エリツィン大統領は乗り気だったように見えた」との証言がありますが、実際にはロシア側は拒否しています。検討していたという情報も一切ありません。(※川奈は首脳会談が行われた静岡県伊東市の地名)

2001年3月
 イルクーツク声明。1956年の日ソ共同宣言を「交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書」とすることが確認されます。この共同宣言には、平和条約締結後に2島を引き渡すことが明記されています。このため、日本側では「プーチン大統領は2島返還で決着したがっている」との憶測が定説化しました。しかし、プーチン大統領本人もプーチン政権当局者も「2島なら引き渡してもいい」とはこの時も、それ以降現在に至るまでも、1度も発言していません。

 ロシア側からすれば、共同宣言が「交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書」だとしても、あくまで出発点であり、プーチン政権としてその通りに進めると約束したことにはならないという考え方です。同声明にはまた、両国の交渉で目指すべき目的を「相互に受け入れ可能な解決」とする文言もあり、意図的に過去経緯に縛られない曖昧さが織り込まれています。

2012年3月
 プーチン首相が各国メディア幹部との会見の席で「引き分け」発言。これを日本側は「2島返還で決着したがっている」と受け取っていますが、ロシア側は一切、そんな説明はしていません。

2013年4月
 首脳会談で、経済協力を進めて平和条約交渉を加速することが合意されます。しかし、領土返還には一切触れられていません。日本メディアは「交渉進展」と大々的に報道しています。

2016年12月
 首脳会談で領土返還については一切進展がありませんでしたが、日本側の巨額投資を中心とする経済協力を進めることが合意されます。

2019年1月14日
 外相会談でラブロフ外相が「日本は4島がロシア領土だと認めよ」「北方領土という用語を使うな」と要求します。

ロシア側は「返還する」と一度も明言していない

 以上のように過去の経緯を俯瞰して見れば、「1島たりとも」ロシア側が返還するなどと一度も明言していないことが明白です。明言しないということは、言質をとられないように注意していることを意味します。つまり、2島返還で決着「したがっている」わけではないことが証明されていることになります。

 この点、日本側には自らの願望によって相手の意図を誤認識する傾向が強くみられます。特に2001年のイルクーツク声明では日本政府もほとんどの日本メディアも「2島返還で決着したがっている」と誤認識しました。しかし、仮にそうであれば、これまでロシア側が一度もその意思に言及してこなかったことの説明がつきませんし、さらに今回のように、わざわざラブロフ外相が「まず4島のロシア領を認めよ」などと発言して交渉のハードルを上げ、2島返還決着の機運に水を差すこともないでしょう。

 さすがに最近は日本側でも「2島すら返す気はないのではないか」とのメディア解説が増えてきましたが、別に最近になって急にロシア側の態度が硬化した、ということではなく、ロシア側には最初から返還の意思はなかったといえます。

 今回、ラブロフ外相は平和条約締結を進めたいとすると同時に、日本側の事情が1956年の共同宣言時とは、60年の日米安保条約改定で大きく変化していることを指摘しています。つまり、現行の日米安保条約による日米同盟の現状、あるいは在日米軍の存在などを口実に、今後も2島引き渡しを拒否していくことを、事実上、宣言したようなものです。日本が現行の日米安保条約を解消する可能性は考えられませんから、ロシアは仮に平和条約が締結されても、2島引き渡しにはすんなり応じないと見るべきです。

 結局、ロシア側は1島すら返還する気はないと考えざるを得ません。1月22日には安倍首相とプーチン大統領の首脳会談が行われますが、北方領土返還に道が開ける可能性は、残念ながらまったく見えません。

私的に 1941年の軍人が浅はかな考えのもと、戦争をした

つけです。そして、1951年9月サンフランシスコ平和条約締結時に

ソ連にアメリカ合衆国なかがいをしてもらい返還が一番だったが

アメリカ合衆国も沖縄県を占領していたから