市川市 三番瀬
三番瀬(さんばんぜ)は、千葉県にある干潟。干潟としては東京湾奥部最大の面積を誇る。なお、読み方は「さんばんせ」ではなく、「さんばんぜ」が正しいとされる。特に市川市行徳から浦安市にかけては新浜と呼ばれていた。
現存する三番瀬は、浦安市の埋め立て地の東沖に位置する、江戸川(江戸川放水路)の河口付近の干潟および浅海域を指し、船橋市、市川市、浦安市、習志野市の沿岸に接する。東端には船橋航路や千葉港があり、西端には猫実川河口や新浦安駅付近の埋立地が広がる。埋立が進む以前は、より西側の旧江戸川河口付近まで干潟や浅海域が広がっていた。
旧江戸川から供給される土砂によって、旧江戸川河口一帯の前置斜面の前浜干潟および浅海域に広く干潟や浅海域が形成され、現在の三番瀬は、その一部が埋め立てを免れて現存している状態である。
江戸川(江戸川放水路)河口の沖合いにある深さ6.5mの市川航路によって中央部で分断されており、東半分を「船橋側」、西半分を「市川側」と呼ぶこともある。東西5700m、南北4000mの範囲に広がっており、水深1m未満の面積は約1200ha。水深5mまでの海域を含めると面積は約1800haに達する。千葉県企業庁によれば、以浅の範囲は陸岸から沖合3~4kmの広い範囲にまで広がっており、海底勾配は1/1000程度と非常に緩やかな勾配で傾斜している。現在、大潮時に干出する面積はそのうち140haであり、かつての干出域が地盤沈下したものと考えられる。
なお、三番瀬の付近には、谷津干潟や行徳湿地(行徳鳥獣保護区・行徳近郊緑地特別保全地区・市川野鳥の楽園・宮内庁新浜鴨場)などの干潟や水辺などが散在する。
歴史
三番瀬という名前は、沖から離れるごとに高瀬、二番瀬、三番瀬と名付けていったことから始まったとする説があるが、「三番瀬」という名前が、いつごろつけられたものか、どういう由来によるものかなどは定かではない。
三番瀬周辺の低地において人が居住をはじめた最古の記録は平安時代であるとされているが、この地域で大々的に漁業が行われるようになったのは、徳川家康が江戸に入府し、西国で開発された網を使った漁法とともに西から漁民が移り住んできた1600年前後だと考えられている。
江戸時代、三番瀬の周辺域は江戸幕府に魚介類を献上するための「御菜浦」として指定され、紀州より移り住んだ漁民によって排他的に利用されていたと考えられている。この排他的な利用に関しては、周辺の漁民との軋轢を生み、代官所への訴訟や老中への直訴などの事件に発展している。三番瀬周辺は豊かな漁場であったほか、陸地には塩田がつくられ、周辺地域は江戸を支える食糧供給基地であった。なお、「のりひび」による海苔養殖やアサリ・ハマグリの養殖は、江戸末期から明治時代にかけて本格的にはじまっている。
明治時代になると、三番瀬の周辺海域では詳しい図面が作られ、漁場としての管理がより厳格になったと考えられる。高度経済成長期に埋立や水質汚染が進むまでの間、旧江戸川河口から東の三番瀬周辺では、アサリなどの貝類、スズキ、カレイ、シャコ、ガザミ、コウイカ、クルマエビ、サヨリ、シバエビなどの多種多様な魚介類が獲れていたことが記録に残っている。また、当時の図面からは、浅海域にアマモが多く生育していたことがわかる。海苔に適した速い潮の流れが維持され水質も良かった昭和50年頃まではノリが盛んに生産されていた。
その後、三番瀬は社会状況の大きなうねりの中で、東京湾全体として進行していた水質悪化や埋立によって大きく変貌していく。その転換期に起きた象徴的な出来事が、1958年に発生した「本州製紙事件」である。この事件は、東京都江戸川区にある本州製紙(現・王子製紙)江戸川工場が新型生産設備を稼動させ、パルプ精製の際に出た廃液を江戸川に流した結果、「黒い水」(廃液中に含まれていた大量のタンニンが海水と反応したために黒い色になった)が江戸川河口域の海を広範囲に汚染したことに端を発する。これに対し漁民は汚染の早い段階から抗議を行ってきたものの、本州製紙は行政による中止勧告を無視して操業を続け、ついに汚染に業を煮やした漁民が工場に乱入。機動隊と衝突して漁民から重軽傷者105人、逮捕者8人、その他負傷者36人を出す大乱闘事件に発展した。
この事件の後、政府はいわゆる「水質二法」(「公共用水域の水質の保全に関する法律(水質保全法)」と「工場排水等の規制に関する法律(工場排水規制法)」)を制定したが、三番瀬の漁業を取り巻く社会状況は経済成長とともに厳しさを増し(「本州製紙事件」で漁民のリーダーだった人物が浦安町長となり、「開発推進」に転向したこともあった)、1960年代に入ると、浦安漁業協同組合による漁業権の一部放棄と埋立事業の開始、1970年代には浦安漁協が漁業権を全面放棄し、1980年代には、旧江戸川河口から市川市境界までの埋立事業が完成する。
こうした東京湾の環境悪化は魚介類の減少を招き、これまでの漁業の存在基盤を危うくすることになった。三番瀬における漁業が現在のように網による海苔養殖や、アサリなどの養殖に依存するようになったのもこの時期である。
一方、市川市や船橋市などの他の地域においても1970年代はじめまでに一部の埋立事業は進行する。しかし、その後の事業は自然保護運動の高まりやオイルショックなどを背景にして計画が凍結され、現在の三番瀬の範囲がかろうじて残る結果となった。
しかし、1980年代に入ると凍結されていた事業が目的を変更して復活し、後に焦点となる「京葉港二期地区計画」「市川二期地区計画」として発表される。これらの計画に対して、1990年代、特にその後半にもなると、干潟の生態系の中での機能の重要さに関する理解が市民レベルでも広がりを見せたこと、諫早湾干拓事業の実態に関する報道が全国的に大きな衝撃を引き起こしたことなどから埋立の反対運動が全国的に広がり、1999年には当初の740ha案から101ha案へと変更されるが、事業は実行されなかった。
その後2001年に、三番瀬の埋立計画の白紙撤回を掲げた堂本暁子が千葉県知事に選出され、住民参加と情報公開の下、三番瀬の再生・保全を進めるという方向が示されるに至った。
さらに2009年の知事選挙で、森田健作(本名:鈴木栄治)が吉田平(堂本の後継候補)を破り、初当選した。森田は「人と自然との共生」を主張している。三番瀬の再生自体は、知事の交代があったものの、県としても継続して取り組むこととされた。
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により、海岸が広範囲に液状化、また振動・津波により構築物等も大きな被害を受けた。以後、自然環境の再生以前の問題として、震災からの復興が大きな課題となっている。
三番瀬は、木更津市の盤州干潟、習志野市の谷津干潟と並び、東京湾奥部における数少ない干潟・浅海域であるため、魚類をはじめとする海の生物や鳥類の貴重な生息地であると考えられている。少なくともこれまで魚類101種、鳥類89種、底生生物155種、プランクトン302種、合計647種が確認されている。そのため、環境省が選定する「日本の重要湿地500」の一つに選定されている。
特に鳥類については、渡り鳥の重要な中継地と考えられており、キアシシギ、ハマシギ、オオソリハシシギ、メダイチドリ、スズガモ、コアジサシなどの四季折々の渡り鳥が休息や採餌のために三番瀬を訪れる。全国的に珍しいとされるセイタカシギは、1990年代以降、三番瀬周辺でよく見ることができるようになった。これらの鳥類は近接する谷津干潟と三番瀬の間を頻繁に往復しており、両者がこれら鳥類の生存に関して補完的な関係にあることが示唆されている。
魚類などについても、三番瀬は産卵場として機能するほか、幼魚・幼生が成魚・成体に育つ場所(いわゆる「ゆりかご」)としての役割を担っているとされているため、三番瀬は東京湾全体の生物の消長にかかわる場所であると考えられている。