習志野市
<広島原爆>占領下、高校生がつづった被爆手記 69年経てネットで公開
広島に原爆が投下された4年後の1949年につづられた被爆手記が見つかった。原爆による悲惨な被害状況が広がらないよう、連合国軍総司令部(GHQ)が目を光らせていた占領期に記された極めて貴重な資料。猛火に包まれる広島城やおびただしい数の遺体など被爆直後の広島市中心部の様子が克明に記録されており、インターネットで現在公開されている。
筆者は旧制広島二中2年当時に被爆した西村利信さん(87)=千葉県船橋市。広島での体験を記憶を元に執筆し、同県立千葉高校の文学クラブが発行した雑誌「道程」に、2回に分けて掲載された。
◇書きたくなかった記憶
西村さんは、陸軍中佐の父利美さんと同中学1年の弟正照さんを原爆で失った。被爆の翌年に母、きょうだいとともに、母の出身地である千葉に移り住む。同高校へ進んだ後に手記を書いたのは、文学クラブの顧問を務めていた教師から「今書いておかないと(事実が)残せなくなる」と強く勧められたことがきっかけだった。
「本当は書きたくなかった」という記憶を文字にした。勤労奉仕中だった午前8時15分、激しい熱風を浴びて傷を負った。直線距離で4.3キロの自宅に、燃えさかる市内中心部を大きく迂回(うかい)してたどりついたこと。建物疎開の作業をしていた正照さんを捜すため、爆心地近くに戻ったこと。無残な遺体。鼻をつく悪臭。耳に残るうめき声──。父が亡くなった状況が記された書類の内容さえも転記した。
合計16ページにわたって手記が掲載されたB5版の雑誌2冊を、西村さんはずっと保管していた。読み返したことはなかった。昨年5月に末期の肺がんと診断された後は、身辺の整理を進めた。2冊は焼却しようと考えていた。
◇占領下の奇跡
転機は今年に入って訪れる。戦時中の様子を尋ねてきた長男の妻桂子さん(49)に「興味があるなら」と雑誌を手渡したのだ。桂子さんはその内容に驚き、千葉県内で被爆体験の朗読に取り組む央(なかば)康子さん(65)=同県習志野市=に相談。埋もれていた手記の存在が明らかになった。
央さんは仲間とともに体験記の公表を西村さんに提案した。手記が書かれたのは戦後の占領期。原爆投下をめぐるGHQの厳しい情報統制は、52年4月にサンフランシスコ講和条約が発効するまで続いた。公表を働きかけた一人で被爆者でもあるジャーナリスト、小野英子さん(79)=同=は「没収を逃れた極めて貴重な記録が奇跡的に残っている。ぜひ世に出したかった」と手記の存在を知った驚きを振り返る。
「処分するつもりのものを今さら」。西村さんは提案を受けた直後は乗り気ではなかった。しかし、熱心な説得で徐々に気持ちが動かされた。小野さんの父が旧制広島二中で英語教師を務めていた偶然も背中を押した。小野さんの父は1年生とともに被爆し亡くなっている。「いい先生だった」。西村さんは公開することを決めると、事実関係を改めて整理し、文章を手直しした。
◇焦土の広島、後世に
インターネットでの公開は5月末に始まった。69年を経てよみがえった手記は、当時まだ幼かったきょうだいたちにも印刷して届けられた。「大人になってから皆で集まることはよくあったが、父や弟の死んだ状況を話したことはない。みんなびっくりしていた」。半世紀以上連れ添ってきた妻敬子さん(77)も、「私たち家族も、一度も聞いたことがなかった」と話す。
公開が始まった後、西村さんは小野さんらに感謝の手紙をしたためた。「一番喜ばしく意味があるのは あの戦争の悲惨、特に焦土と化した広島の姿が何人もの心に残り 後の世に言い伝えられ続けるという事です」。被爆体験を残すことの意義もつづった。
◇新証言掘り起こす働きかけを
「ヒロシマ戦後史」(岩波書店)などの著作があり、被爆手記の収集・分析に長年携わってきた元広島大教授の宇吹暁(うぶき・さとる)さんは、「戦後73年を経て、いまだに新たな証言が出てくるのはすごいことだ。被爆者一人一人がその目で見た事実は、断片的であっても、すべて残していくことが重要。(新証言の発見は)被爆者へ働きかけることで、今後もありうる」と語った。西村さんの手記「原爆体験記」は、公開に尽力した俳優、岡崎弥保さんの公式サイト (http://ohimikazako.wixsite.com/kotonoha/blank-17) で閲覧できる。