千葉市   「スゴ腕」の女性広報

千葉市

ゴーン氏も説き伏せた! 「スゴ腕」の女性広報 悪口も隠さず伝えたら…

 

仏ルノーから日産自動車に来たばかりのカルロス・ゴーン氏を支えたのが、専属広報を務めた田中径子さんだ。駐ウルグアイ日本大使という異例の経験を経て、今は日産フィナンシャルサービスの執行役員に就いている。単身、乗り込んできた再建の担い手を至近距離で眺めながら、彼女は何を学んだのか。

千葉市美浜区にある日産フィナンシャルサービスの本社を訪ねた。同社はクレジットやカーリース事業など、自動車に関連した金融関係の事業を手がける、日産自動車の子会社だ。田中さんは2018年4月から、執行役員としてコンプライアンス統括部と総務人事部を担当している。

「経営のキーワードとして掲げているのは『想い』。自動車業界は激変期を迎え、1台の車を複数で共有するカーシェアリングや通信機能を備えたコネクティッドカーが注目されています。これらには金融が絡んできますから、想いを持って自ら考えた新規事業を提案できる人材を育て、企業風土を醸成していくのが私の仕事です」
■米国留学で英語身に付け、帰国し広報業務に
田中さんは男女雇用機会均等法が施行される前の1984年、上智大学外国語学部を卒業して日産自動車に入社した。社命でスタンフォード大学ビジネススクールに留学したのは91年のことだった。

「女性が会社の中でキャリアを築くのはまだ難しい時代でしたから、留学でもしない限り、キャリアはひらけないだろうと思っていました。指名制だったので、だめなら私費でも行こうと思っていたのですが、制度が変わり、ある程度の勤務経験と英語力さえあれば応募できるようになり、その最初の年に応募して受かったんです」

帰国すると、広報部で企業広報を担当した。記者クラブにリリースを配布し、ひっきりなしに入る記者からの問い合わせに応じつつ、次に出すリリースを準備するという、多忙な毎日を送った。96年から99年までは、北米日産ワシントン事務所に勤務。米商務省や米通商代表部(USTR)へのロビー活動、東海岸の日本メディア対応、格付け会社への説明などに奔走した。

当時の自動車業界は、今日とは違う意味で「激変期」を迎えていた。自由貿易を促進する狙いで世界貿易機関(WTO)が95年に発足。グローバル化時代の幕開けとともに、大型合併に向けて動きが騒がしくなっていた。

独ダイムラー・ベンツと米クライスラーが合併を発表したのを受けて、危機感を強めたルノーも提携相手を模索していた。候補にのぼったのが、業績不振にあえいでいた日産。だが、日産は当時、すでにダイムラーから出資を受けるための交渉を進めており、提携相手にルノーを選ぶ可能性は低いと考えられていた。

■ダイムラー提携を願うが、立ち消えでがっかり
米ワシントンでヒヤヒヤしながらその経緯を見守っていた田中さんは、ダイムラーとの交渉がまとまることをひそかに期待していたという。

「学生時代にドイツ語を専攻していましたから、ダイムラーだったら自分が活躍できるだろうと考えました。99年3月にダイムラーが出資交渉から手を引いたというニュースをニューヨークで知ったとき、隣にいた日本人に『田中さん、きょうはため息ばかりついていますね』と言われたのを覚えています。そのころはこのまま失業したらどうしようかと、本気で心配していました」

間もなく、そんな田中さんのもとに即帰国の命が下る。提携先のルノーからCOO(最高執行責任者)として日産にやってくることになったカルロス・ゴーン氏が専属広報を必要とし、語学力もあり、広報としての経験も積んでいた田中さんに、その白羽の矢が立ったのだ。
■ゴーン革命で変わった、日産の広報システム
「ゴーンさんが日産に来て、まず何が変わったかといいますと、社内広報と社外広報が一体化したことでした。従業員はそれまで、会社の重大ニュースを新聞記事で初めて知ることも多かったのですが、彼が来てから社内広報と社外広報は同時か、社内が先かに変わりました。体制的にも、それまで社外広報は広報部が、社内広報は人事が担当していたのですが、両方とも広報部が担当するという形に一本化されました」

その結果、新聞紙面で初めてニュースを知った社員が慌てふためくようなこともなくなったという。再建の最中にあった日産にとって、これは非常に重要なことだった。

「ゴーンさんは99年4月に来日し、その10月に『日産リバイバルプラン』を発表しました。発表前の7月7日に管理職を一堂に集めてスピーチをしています。『コストカッター』『コストキラー』と恐れられているという海外の報道もあり、ネガティブなイメージを持っていた管理職もいたはずですが、そのスピーチで完全に心をつかまれた印象でした」

本音でコミュニケーションする田中さんを、ゴーン氏も信頼していたのだろう。2000年に社長就任するにあたり、前任者の塙義一氏とともに記者会見を開くことになった際のエピソードがそれを物語る。

このような場合、日本では新旧社長がそろって会見に臨むのがならわしだ。しかし、ゴーン氏は当初、「なぜ2人並んで会見しなければならないのか?」と抵抗を示した。それを田中さんが説得。ゴーン氏は納得したわけではなかったが、最後は「君がそう言うならやろう」と、塙氏と並んで会見に出ることを承諾した。

■ゴーン氏が日産社内で認められた瞬間
田中さんによると、ネガティブな前評判を完全に払拭できたのは、ゴーン氏が日産社長に就任して2年目にあたる2002年の春闘での決断だったという。

「最終回答までおおむね5回交渉をするのが慣例ですが、ゴーンさんは5回目を待たずに3回目で労働組合が求める賃上げとベースアップに対して満額回答をしました。決めたのだからあとの2回をやるのは無駄だろうというのがゴーンさんの考え。当時の役員は驚いていましたが、言われてみれば、そうしてはいけないという決まりごとがあるわけではなく、ただ、それまでそのような決断をした人物が誰もいなかったというだけのことでした」

専属広報をしていた約3年間、「セブン・イレブン(午前7時から午後11時まで)」のあだ名がつくほど精力的に働くゴーン氏に食らいつきながら、ひっきりなしに入るマスコミからの取材依頼をさばくなど、田中さんもめまぐるしい日々を送った。
■社内改革はまず内部の力で進める
当初、社内にも社外にもほとんど味方のいない環境の中で、ゴーン氏が田中さんに期待したのは「トランスペアレンシー(透明性)」だったという。

「心がけていたのは、ゴーンさんにとって耳の痛い話も包み隠さず伝えることです。伝えるとちゃんと聞いてくれましたし、『伝えてくれてありがとう』と言ってもらえました。ゴーンさんも日産の従業員も共通して願うのは『会社を再建すること』。最終的に会社の利益になることは何かを考えて動く限り、そんなに大きな問題はなかったと思います。私は日産の生え抜きですから、同僚たちからすれば、ゴーンさんには直接言いにくいことも私には言いやすかったでしょうし、ゴーンさんにとってもそれはよかったのかも知れません」

ゴーン氏に仕えたことで、田中さんも「無意識のうちにゴーンさん的な振る舞いが身についた」という。ブラジルに生まれ、フランスで学び、仏ミシュランからルノー、日産へ。異なる組織で結果を出してきたゴーン氏からは、トランスペアレンシーと同時に、ダイバーシティー(多様性)の重要性も学んだ。

「私自身はずっと日産の中にいましたから、ゴーンさんをはじめ、外部から来た人の新鮮な意見を聞いて、ハッとなることは何度もありました。そういう意味で、ダイバーシティーって大事なんだと思いました」

つい最近も、それに近い経験をしてきたという。

田中さんは9月初旬、渡米して米スタンフォード大学ビジネススクールの卒業25周年同窓会に参加した。330人いるクラスメートの6割と再会。すでにビジネスの一線を退き、第2、第3のキャリアを歩んでいる級友も多かったという。

「今回はミニTEDトーク(=様々なアイデアが発表・提案される講演会)のようなプログラムもあり、ナパ・バレーでも比較的古くて大きなワイナリーの経営者、ピーター・モンダビ氏がファミリービジネスに関するスピーチをしました。ほかには米海軍で初めて同性愛者であることを公言した女性や、弟さんがALS(筋萎縮性側索硬化症)になったのをきっかけに、ALSの患者さんを支援する活動をしている女性も来ていました」

日産フィナンシャルサービスでも「ビジネスに近い分野で社会貢献活動なども始められたらいい」と考えている。