船橋市  ロヒンギャ問題⑤

船橋市        ロヒンギャ問題

           建国の父

 

少数民族に対して、ビルマ族だけではなく共に一つの国を建設しようと、説いて回ったのが、「建国の父」といわれるアウンサン(アウンサンスーチーの父)でした。

アウンサンは1947年2月に憲法草案をまとめる際に、少数民族には10年後に連邦からの離脱権を与えることで、連邦内に留まるという約束を取りつけて、ようやく統一に成功したのでした。

ところが同年7月には、アウンサンが暗殺されてしまいます。アウンサンの後の指導者たちは、少数民族を武力で抑え込む政策をとりましたが、独立直後から少数民族の反乱に悩まされます。

その先頭となったのがカレン族でした。カレン族は「カレン国」の設立を求めて反旗を翻し、これに他の少数民族と共産党員が乗じたために、国土の3分の2を反乱軍が支配下におさめるという事態に発展しました。

政府はイギリスやインドの軍事援助を得て、ようやく事態を鎮静化するに至りました。けれども、少数民族の反乱は各地で続き、1980年代末になるまでタイ国境周辺のほぼすべての領域が、少数民族の反乱軍の支配下にあったといわれるほどでした。

ミャンマーの歴史を振り返ると、現在のような軍や行政の中枢をビルマ族が占めるという、ビルマ族の圧倒的な優位性は、まさに近年までみられなかった現象です。そのため、この状況を作り上げ、維持していくためには、武力の行使もためらってはいられないというのが本音なのでしょう。

とくに軍は少数民族政策には妥協を許さないという立場のようです。少数民族との軋轢を調整していくことは、ミャンマー政治のまさに中心的な課題となのです。

一方、少数民族側の事情も複雑です。少数民族とひとくくりにしてしまいがちですが、おのおのの民族内部も一枚岩ではなく、シャン族のように同じ部族内でも対立があったり、カレン族のように宗教が異なったり(仏教徒とキリスト教徒)、飛び地を有していたりと様々です。

そのため、少数民族同士が団結して、ビルマ族と折衝するといった協力体制が実現したことはこれまでないそうです。つまり、少数民族同士もお互いに関係が薄いのです。ロヒンギャは宗教も異なっており、「国民」とも認められていないため、ミャンマー国内には、ロヒンギャを擁護するような勢力はほぼ存在していないといっても過言ではありません。

ミャンマーでは「ロヒンギャ」という単語さえ報道されません。ラカイン州に大量の「不法移民」は存在していても、ロヒンギャという「民族」は存在しないことになっているからです。ロヒンギャの人々が民主化運動の際に支援していたアウンサンスーチーですら、「ロヒンギャ」という語を用いたことはありません。ミャンマー国内では、ロヒンギャはあくまで「国民」ではないのです。

「ロヒンギャ」という単語を使わない国がもう一つあるようです。ニューズ・ウィーク日本版の2017年9月26日号に掲載された「ロヒンギャ弾圧に不感症な日本外交」という記事によれば(http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/09/post-8542_1.php)、こうしたミャンマー政府の姿勢を忖度してか、日本政府は治安部隊等に襲撃を行なったアラカン・ロヒンジャ救世軍(ARSA)という固有名詞以外には、「ロヒンギャ」という語を用いていないそうです。

日本政府はバングラデシュに対して、避難民の支援のために緊急援助を含め1800万ドル以上の資金協力を行なっています。ですが一方で、11月17日には国連総会の人権問題を扱う委員会において、ミャンマー政府のロヒンギャ迫害を非難する決議が賛成多数で採択された際には、日本政府はミャンマー政府を考慮して採決を棄権しました。

実は日本にもロヒンギャが230名ほど居住しています。そのうちの9割である200名程度が群馬県館林市に暮らしているといわれています。彼らの中には、難民申請が受理された人もわずかにはいますが、強制送還が決定した人もあり(「無国籍」のため送還される本国がないという理由から実際には送還が実施されていない)、状況は一様ではありません。

つづく