船橋市  トルコとの関係

船橋市    トルコとの関係

次に、トルコについてですが、首都イスタンブールなどで観光地に行くと、日本語での呼び込みだけではなく、かなりしっかりした日本語で話しかけられることがとても多いことに驚かされます。この現象は、トルコ語がアラビア語と異なり、日本語と語順が同じで、いわゆる日本語の「て、に、を、は」の助詞も同じようにあるため、とても習得しやすい言語だからではないかといわれています。
また、トルコの人々が日本に対して好印象をいだいている理由として、よく知られている2つ事件があります。それは1890年に起きたエルトゥールル号遭難事件と、1985年イラン・イラク戦争中のトルコ航空機による邦人救出です。これらの事件は2015年に日本・トルコ合作の『海難 1890』という映画にもなっているため、ご存知の方も多いことでしょう。
エルトゥールル号遭難事件とは、1890年に和歌山県沖でオスマン帝国の軍艦が遭難した事件のことです。1887年に小松宮彰仁親王ご夫妻がトルコを訪問し、スルタンであるアブドゥル・ハミト2世に謁見した返礼として、オスマン帝国は650名を超える使節団を乗せた軍艦、エルトゥールル号を日本に派遣しました。
この船は11カ月かけて日本に到着し、オスマン帝国からの初めての使節団として歓迎されました。エルトゥールル号は1890年9月16日、日本訪問を終えて帰路についた際に、和歌山県紀州沖で台風に遭遇し、座礁、沈没してしまいました。乗組員のうち587名が死亡する悲劇となりました。付近(現在の和歌山県東牟婁郡串本町)の住民の救助によって、わずか69名の乗組員が救出されたのでした。
救出された69名は、日本の軍艦2隻によって無事、トルコに送り届けられました。さらに、この大惨事に対して日本国内の広くから集められた義援金も届けられました。のちに、串本町にはこの事件の慰霊碑が建てられ、友好の記念としてトルコ記念館も建設されています。
現在でも、エルトゥールル号遭難の際の犠牲者に対する追悼式が5年に一度行なわれているそうで(2015年開催)、2008年にトルコの大統領が初めて日本を訪問した際にも、この追悼式に出席したそうです。
もうひとつの出来事、トルコ航空機の邦人救出についてですが、これはイランとの戦争中に、イラクのサッダーム・フセインが「48時間以降、イラン上空にある航空機をすべて撃墜する」という発言したこと端を発しています。
その時点で、まだ200名以上の日本人がイランには取り残されていました。当時は、自衛隊機を直接派遣することが法律上不可能であったために、日本政府は邦人救出のために民間航空機をチャーターしようとしたものの、危険であることを理由に断られてしまいます。
八方ふさがりの状況で、自国民を避難させるための航空機を、あえて取り残された日本人たちのために使用させてくれたのがトルコ政府でした。これによってイランに取り残されていた日本人は、全員無事に救出されたのです。
一方、航空機に乗るはずだった500名を超えるトルコの人々は、陸路、車で脱出することになったのだそうです。この措置はトルコの人々からエルトゥールル号への恩返しであったといわれています。

つづく

 

 

 

本日、船橋市海神自宅より依頼を受け、お伺い、車椅子にて

船橋市金杉船橋市立医療センターに通院治療をされ戻りました。