千葉市   千葉氏⑤

千葉市    千葉氏

       千葉常胤の活躍

 

常胤が家督を継承した翌年の1136年(保延2年)、下総国国司藤原親通(ちかみち)は公田官物の未進(税金の滞納)を理由に常重を捕え、相馬御厨と立花郷の割譲を要求してきました。
同時にこの事件を知った源義朝(よしとも)も相馬御厨の割譲を要求してきました。
常胤は一旦、相馬御厨と立花郷を譲ることに同意し、後で滞納分を弁済して相馬郡司に任命されました。
また、義朝に対しては、主従関係を結ぶことで、御厨の下司権を確保しました。
しかし、平治の乱(1159年)で義朝が平清盛に敗れると、この所領は国に没収されてしまいました。
こうして常胤は継承した相馬御厨と橘庄の権利を全て失うこととなり、20年余りにわたる努力は無駄になってしまいました。
しかし、1180年(治承4年)源義朝の子、頼朝(よりとも)が伊豆で挙兵し、平家方との戦いに敗れて房総に逃れてくるといち早くこれに味方する意向を示し、さらに頼朝に対して鎌倉に本拠を構えることを進言するなど鎌倉幕府の創設に重要な役割を果たしました。
その後、源平合戦・奥州合戦などにも参戦し、この功績で常胤は失った相馬御厨と橘庄を取り戻し、下総国・上総国の2か国をはじめ、東北地方、九州地方など全国で20数カ所といわれる広大な所領を獲得し、千葉氏は幕府の中でも屈指の御家人に成長しました。
獲得した所領は、その後常胤の6人の子、胤正(たねまさ、千葉介)、師常(もろつね)、胤盛(たねもり)、胤信(たねのぶ)、胤通(たねみち)、胤頼(たねより)がそれぞれ分割して受け継ぎ、それぞれの中心となる所領の地名を名乗りました。
これを千葉六党(ちばりくとう)といい、惣領である千葉介を中心に一族が強固に団結していました。

 

つづく