市川市   歴史と文化の散歩道

市川市     歴史と文化の散歩道

市川駅が開業したころ
明治27年(1894)7月20日、総武鉄道(現在のJR総武線)、市川・佐倉間が千葉県初の鉄道として開業しました。鉄道の建設は、資材を江戸川の舟運で陸揚げしたことから、市川を起点に工事が始まり、同年12月9日には江戸川橋梁も完成し、本所(現在の錦糸町)・市川間が開通。下総の国と武蔵の国とが鉄道で結ばれました。
総武鉄道の開業時には、本所と市川間に中間駅がなく、所要時間は、本所・市川間が17分、本所・佐倉間は1時間40分でした。ちなみに、現在の錦糸町・市川間は快速で10分です。当時の市川駅の年間乗降客数は約14万人、一日約380人で、一日あたり12万人の現在とは隔世の感がありますが、列車が日に6往復であったこと、客車の両数も少なかったことからすれば、列車が到着するごとに賑わいがあったかと思われます。ただ、鉄道が開業したものの、人や車が渡る市川橋(旧橋)が竣工するのは明治38年1月ですので、まだ、蒸気船の渡し船が全盛の時代でした。
俳人であり歌人の正岡子規は、明治27年12月に開業したばかりの総武鉄道で佐倉まで旅をしています。子規は、これまでの伝統的な和歌・俳諧の世界に客観的写実主義の新しい波を起こしたことで後世に名を残しており、途中、市川付近の情景を俳句に詠んでいます。
子規は、新聞「日本」に載せた紀行文「総武鉄道」に、「家次第にまばらに野開き木立ところどころに枯れたり。朝晴の景色心地よく鴻の臺を左に眺めて車は轉じ江戸川の鐵橋を渡りて市川に着きぬ。“村もなし只冬木立まばらなり”“兵営や霜にあれたる國府の臺”“冬枯やはるかに見ゆる真間の寺”」の句を詠みました。本所から汽車に乗ってきた子規には、最初の停車駅である市川が寒村であったことが印象に残ったのでありましょう。また、酒と旅と自然を愛した歌人、若山牧水も明治44年の作として、「下総市川にて“藪雀群がるゝ田なかの停車場にけふも出て汽車を見送る”」という歌を残しています。
本所駅が開業したとき、駅前には子規の後継者であった伊藤左千夫が経営していた牧場がありました。左千夫の自伝的小説といわれる『野菊の墓』のなかにも、主人公の政夫が市川から汽車に乗ったことが出てきます。
鉄道とともに発展した市川。遠い昔の情景を思い起こしてはいかがでしょうか。

本日、市川市真間自宅より依頼を受け、お伺い、車椅子にて

市川市鬼高ニッケコルトンプラザに行かれました。