習志野市 歴史
江戸時代
戦国時代末期、後北条氏の支配下に入った千葉氏は、天正18年(1590)に後北条氏とともに滅亡。その後、徳川家康が関東を領有するようになり、慶長8年(1603)に江戸幕府が開府しました。
江戸時代の市域には、谷津村・久々田くぐた村・鷺沼村・藤崎村・実籾村の他、新田開発により成立した大久保新田などがありました。これらの村々に藩領はなく、いずれも幕府領または旗本領でした。なかには一つの村を複数の領主が分割支配する相給あいきゅう村落もありました。
村々は大消費地江戸近郊の生産地として発展していきます。海岸沿いの房総往還(千葉街道)や本市を東西に横断する東金(御成)街道は、幕府の役人や住民の通行、物資輸送のために利用され、街道沿いには集落が成長していきました。海上輸送も盛んに行われ、江戸との間を多くの船が行き交いました。
また、現在の東習志野地区は幕府の直轄牧場である小金牧の一部、下野しもの牧に含まれていました。近隣の村には街道や牧の管理のため重い負担が課せられ、将軍が鹿しし狩りを行う際には、市域の村々の百姓も勢子人足せこにんそく(狩場で獲物の鳥獣を追う人夫)として動員されました。嘉永2年(1849)の鹿狩りで勢子が目印にした鷺沼村の村小旗は現在も残っており、千葉県指定文化財に指定されています。
つづく