習志野市 歴史
現代
習志野市誕生2 1日だけ存在した習志野町
習志野市誕生 2 1日だけ存在した習志野町
習志野市は津田沼町と幕張町の一部が合併して誕生したといわれています。
しかし、その間にたった1日だけですが、「習志野町(ならしのまち)」という地方自治体が 存在したということは、あまり知られていません。
習志野市の前身となる津田沼町は、最初二宮町(現在の船橋市)と合併をし、市制を敷くことを決めましたが、二宮町が昭和28年(1953年)8月に船橋市と合併することになり、この構想は挫折してしまいます。二宮町を合併した船橋市は津田沼町にも合併を申し入れますが、当時の白鳥町長は、船橋市の財政が人件費などに多く使われていることを批判し合併を拒否します。
つぎに津田沼町が合併の相手に選んだのは隣接する幕張町と犢橋村(こてはしむら)でした。3町村は昭和28年11月から合併協議会を開き、合併によって成立する市名を「習志野市」とし、新しい市役所を津田沼駅と幕張駅の中間に建設し、そこに「習志野駅」を新設することなどを決めました。しかし、次第に習志野市建設の雲行きはあやしくなっていきます。当時千葉市長だった宮内市長が「大千葉市構想」を掲げて、千葉郡の町村に千葉市への合併を強力に働きかけてきたのです。一方、幕張町・犢橋村にも千葉市との合併を主張する住民が多く、合併問題をめぐり町村が二分されるという事態になってしまいます。最終的に千葉県の調停もあって、幕張町は千葉市と合併し、その後一部が分離して習 志野市を建設することになりました。
その後、正式には昭和29年(1954年)8月1日に津田沼町が「習志野町」と名前を変更し、同じ日に千葉市の一部を編入することで市に昇格して、「習志野市」となるという手続きを取りました。千葉県文書館所蔵の千葉県庁文書の中には「習志野町」とタイプライターで打った町名変更の申請書があり、確かに書類の上にだけ習志野町が存在したことが分かります。このような紆余曲折の結果、昭和29年8月1日習志野市は県下で16番目の市として誕生しました。こうして、吉野信町長の大習志野市構想は、人口3万足らずの小さな市として実を結ぶことになりました。