船橋市    ロヒンギャ問題③

船橋市     ロヒンギャ問題

無国籍となったロヒンギャ

 

 

では、ロヒンギャの人々はなぜ迫害されているのでしょうか?  これはロヒンギャの人々の国内での位置づけと深く関係しています。

1982年に国籍法が改正されたのですが、これによって国民は「国民」と「準国民」、「帰化国民」に分けられることになりました。「準国民」と「帰化国民」については、3代以上ミャンマーに居住した場合、「国民」へと格上げされますが、それまでは公務員の管理職となることや、一部の大学などへの入学は認められないなどの不利益を被ることになります。

ここでいう「国民」とは、第一次英緬戦争(えいめんせんそう:1824~26年のイギリスとビルマとの戦争)が始まる前年である1823年までに、ミャンマーに居住していたとされる135の民族の人々のことです。

彼らはミャンマーの「土着」であると認められ、自動的に「国民」としての国籍が付与されることとなりました。1823年としたことにより、イギリスの植民地下で流入した、インド系の人々は「国民」という枠組みに入れないことになりました。

「準国民」とは、独立後の1948年に作られた国籍法に基づいて国籍を取得した人々(手続き進行中を含む)とその子孫を指します。このカテゴリーには、「国民」の枠からはじかれた、おもにインド系や中国系の人々、英系ミャンマー人が含まれることになりました。

最後に、「土着」とは認められない少数民族のうち、1948年の国籍法施行以前に領内に入り居住していたものと、領域で出生したものの子孫(いずれも証明ができること)が「帰化国民」となります。この証明ができることという条件が、帰化の条件をひじょうに困難にしているのです。

この国籍法では、ロヒンギャはミャンマーに居住している「土着」の135の民族の中に含まれていません。そのうえ、帰化しようにも1948年以前に領域内に居住していなければ帰化もできません。たとえ、1948年以前に居住していたとしても証明書がなければ、帰化は不可能です。

こうして、ロヒンギャの人々は、「無国籍」となり、ベンガル地方(バングラデシュ)からやってきた「不法移民」として扱われることが決まったのです。その結果、「国籍」のある他の少数民族よりも、はるかに厳しい状況に置かれることとなったのです。

1988年に再び軍が政権を掌握した後には、より一層の国民統合を図るようになり、ロヒンギャを含む少数民族への風当たりが強くなっていきました。なかでも、ロヒンギャがアウンサンスーチーの率いる民主化運動を支援したために、彼らへの迫害が一層厳しくなったのです。

1991~1992年には7万から8万人ともいわれる軍がラカイン州に集結し、ロヒンギャの村落を焼き払い、財産や家財を没収しました。ロヒンギャの人々は軍施設や橋などの建設に強制的に従事させられ、反抗すれば殺害されました。

この間、25万人以上のロヒンギャが、再度バングラデュに逃れることとなったのでした。その後も、ロヒンギャへの迫害はやむことなく続いており、移動の自由すら認められなくなっています。

2000年以降にロヒンギャ難民が世界中で知られるようになった一例としては、2009年のタイでの事件が挙げられるでしょう。船で脱出したロヒンギャ難民がタイ南部に流れついたものの、タイ国軍は彼らを助けるどころか、わざわざボートに移して外洋までつれて行き、海上に放置したのです。

タイは難民条約に加盟していないため、タイではロヒンギャは難民としてではなく、「不法入国者」として扱われています。東南アジアで難民条約を批准しているのは、カンボジアとフィリピンの2カ国しかありません。つまり、ミャンマー周辺諸国では、ロヒンギャ難民は「難民」ではなく、「不法入国」の「経済移民」として扱われることが多いのです。

通常、「難民」とは戦禍や迫害から逃れてくる人々のことを意味します。一方、移民とは経済的理由などから移り住んでくる人々を指します。なかでも、経済的理由を背景とした移民については「経済移民」と呼ばれています。

たとえば、シリア難民などを受け入れているヨーロッパ、とくにフランスなどにおいても、人道的配慮から「難民」と「移民」を区別すべきだという議論が高まっています。けれども、両者を厳密に区別することは困難でしょう。

つづく